国枝史郎「怪しの者」(8) (あやしのもの)

国枝史郎「怪しの者」(8)

      九

 途端に「あッ」という悲鳴が起こり、刀をふりかぶったまま、鶴吉は躰《からだ》を捻《ねじ》りましたが、やがて、よろめくと、ドット倒れました。脇腹《わきばら》から血が吹き出しています。
「わーッ」という声が湧《わ》き上がりましたが、これは船大工や藩士の方々が、思わずあげた声でした。でもその声はすぐに止《や》んで、気味悪くひっそりとなってしまいました。
 血にぬれた懐剣をひっさげて、駕籠の垂《た》れを刎《は》ねてお小夜坊が、姿を現わしたからです。
 お小夜坊ではなくてお柳《りゅう》でした。
 はじめて人を斬ったのでした。お柳の顔色はさすがに蒼《あお》く、その眼は血走っておりましたが、それだけにかえって凄艶《せいえん》で、わたしとしましてはお柳という女を、この時ほど美しいと思ったことは、ほかに一度もありませんでした。お柳はわたしを見やってから、船大工たちへ言いましたっけ。
「皆様ご安心なさいまし、お小夜様は妾《わたし》がお助けして、この林の奥の、藪蔭にお隠しして置きました」
 歓喜の声をあげて、船大工たちが林の奥へ走って行ったのは、いうまでもないことでございます。その間に西条様や藩士の方々は、鶴吉の息の根を止めようとしました。でもわたしは制止しました。
「どうせ死んで行く人間です、静かに死なせてやって下さい」
 見れば鶴吉は断末魔に近い眼を、わたしの眼へヒタとつけて、物言いたげにしておりました。そこでわたしは近寄って行って、耳に口を寄せてささやきました。
「言いたいことがあるなら言うがいい」
「乞食に計られて死んだとあっては、オ、俺《おれ》は死に切れぬ。頼む、明かしてくれ、お前の素性を」
「もっともだ、明かすことにしよう。……尾張家の附家老《つけがろう》、犬山の城主、成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》の家臣、旗頼母《はたたのも》、それが俺だ」
 ここで私は言葉を改め、「貴殿のご姓名なんと申されるかな?」
「…………」無言で首を振るのでした。
「隠密として事破れし以上、姓名は言わぬというお心か。ごもっともでござる」
 この時突然屋敷内から、火の手が立ち昇りました。
「火事だ!」
「大変だ、作事場《さくじば》が燃える!」
 人々は叫んで走って行きました。
「鶴吉殿」と耳に口を寄せ、またわたしはささやきました。
「貴殿をこの地へ遣《つか》わした、そのお方が心にかけられた、宗春様ご建造の禁制の大船、ただ今燃えておりまする。貴殿のお役目遂げられたも同然、お喜びなされ、ご安心なされ!」
「火事?……大船が?……燃えている?」
「拙者が放火《つけび》いたしたからでござる」
「貴殿が……お身内の貴殿が?」
「われらが主君成瀬隼人正、西丸様お企てを一大事と観じ、再三ご諫言《かんげん》申し上げたれど聞かれず、やむを得ず拙者に旨を含め……」
 この時船大工たちがお小夜様を連れて、林の奥から出て来ました。
「お柳、お小夜様を、鶴吉殿へ!」
 わたしの相棒のお柳は、お小夜様の手を取って、鶴吉の側へ連れて行きました。お小夜様は恐怖《おそろしさ》と悲哀《かなしさ》とで、生きた空もないようでございましたが、でもベッタリと地へすわると、鶴吉の項《うなじ》を膝の上へのせ、しゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて泣きました。鶴吉を愛していたのですねえ。

 宗家相続の問題以来、将軍吉宗様《はちだいさま》と尾張家とは、面白くない関係《あいだがら》となりまして、宗春様が年若の御身《おんみ》で、早くご隠居なされましたのも、そのためからでございますし、ご禁制の大船を造られましたのも、吉宗様《はちだいさま》に対する欝忿《うっぷん》晴らし、そのためだったように思われます。そのご禁制の大船ですが、もうあの時には九分がたできていて、立派なものでございました。ご主君から渡された竹筒仕込みの地雷で、わたしが焼き払いさえしなかったなら、完成したに相違ございません。庄内川から取り入れた水を、すぐに船渠《せんきょ》へ注ぎ入れ、まず庄内川へ押しいだし、それから海へ出すように、巧みに仕組まれてもおりました。
 勢州《せいしゅう》産まれの乞食《こじき》権七《ごんしち》、そんなものにまで身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》し、尾張家のためとはいいながら、あの立派な船を焼きはらったことは、もったいなく思われてなりません。



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