国枝史郎「犬神娘」(02) (いぬがみむすめ)

国枝史郎「犬神娘」(2)

        二

 駕籠の前方半町ばかりの先を、俊斎様が警戒して歩き、吉之助様が駕籠側《わき》に附き、私がその後からお従いする――といった順序で歩いて行きました。坊主負いにした風呂敷づつみの荷物を、揺り上げ揺り上げ従《つ》いて行く私の、眠りの足らない眼にも町の辻や角に、捕吏らしい人影の立っているのが見えて、心がヒヤヒヤいたしましたが、眼にとめて駕籠を見送るばかりで、誰何《すいか》するものとてはありませんでした。平然と歩いて行ったからでしょう。
 こうしてとうとう京の町を出はずれ、竹田街道へさしかかりました。と先を歩いていた俊斎様が、足早に引っ返して参りまして、
「捕吏《いぬ》らしい奴ばらが十二、三人、向こうの茶屋に集《つど》っておるがな」
 と、吉之助様に囁《ささや》きました。
「さよか」と吉之助様はおっしゃいまして、しばらく考えておられましたが、「轎夫《かごや》、この駕籠を茶屋の前で止めろ、人数の真ん中へ舁《か》き据えてくれ」とこのようにおっしゃってでございます。
 私も驚きましてございますが、俊斎様も驚いた様子で、首を一方へ傾《かし》げましたが、でも何んともおっしゃいませんでした。(西郷どんは大相もない人物、考えがあってやることだろう)と、こう思われたからでございましょう。
 茶屋というのは立場茶屋《たてばぢゃや》のことで、町から街道へ出る棒端《ぼうはな》には、たいがいあるものでございます。
 そこへ駕籠が据えられました。
 と、不意に吉之助様が、
「あんまり早く起こされたので、わッはッはッ、この眠いことはどうじゃ。渋茶なと啜《すす》らんと眼が醒めんわい」
 と、大きな声で云われました。
 すると隙《す》かさず俊斎様が、
「俺は酒じゃ、冷酒《ひやざけ》じゃ。こいつをキューッとあおらんことには、腹の虫めがおさまらぬげに」
 と、これも大声で云われました。
 捕吏らしい様子の者が十二、三人と、早立ちの旅人らしい者が五、六人がところ、土間にも門口《かどぐち》にも門《かど》の外にも、ごちゃごちゃ入り混んでおりまして、茶屋は混雑しておりました。
 駕籠は門口へ据えられたのでした。
 往来を警戒するかのように、捕吏たちの多くはその門口に、かたまって立っていたのでしたが、その真ん中へ駕籠を据えられ、吉之助様や俊斎様に、そんなような態度に出られましたので、疑惑を起こさなかったばかりでなく、むしろ飽気《あっけ》にとられたような様子で、駕籠から離れてしまいました。
 そこで私たち三人の者は、駕籠をその場へ舁《か》き据えたまま、土間の中へはいって行き、上がり框《がまち》へ腰をかけました。
 と、この茶屋の娘らしい女が、茶をついだ湯呑みを盆にのせて、人混みの中を分けるようにして、ご上人様の駕籠の方へ歩いて行きかけました。
 その時声が聞こえましたっけ。――
「ちょいと娘さん妾《わたし》へおかしよ。……妾の方が近間だよ。……代わってお給仕してあげようじゃアないか」
 綺麗な張りのある声でした。
 門口に近い柱に倚《よ》って、甲斐絹《かいき》の手甲《てっこう》と脚絆《きゃはん》とをつけ、水色の扱《しご》きで裾をからげた、三十かそれとも二十八、九歳か、それくらいに見える美しい女が、そう云ったのでございます。痩せぎすで身丈《せい》が高く、抜けるほど色が白い、眼は切れ長で睫毛《まつげ》が濃く、気になるほど険があり、鼻も高く肉薄で鋭く、これも棘々《とげとげ》しく思われましたが、口もとなどはふっくりとして優しく、笑うと指の先が沈むほどにも、左右に靨《えくぼ》が出来るという、そういう眼に立つ女でした。
「ではおねがいいたします」
 茶屋の娘がこう云い云い、差し出した盆を片手で受け取ると、その女はそれを持って人を分けて、門口《かどぐち》の方へ行きました。
 ご上人様の駕籠に近寄ったのでした。
 何がなしに不安を感じまして、私はハッといたしましたが、吉之助様も俊斎様も、同じように不安を感じられたと見えて、顔を見合わせましてございます。
 といってどうすることも出来ませんので、私たちはじっと見詰めていました。
 駕籠へ近寄りますとその女は、何か云ったようでございます。すると駕籠の扉が細目に開いて、ご上人様の手が出ました。湯呑みを取ろうとなされたのでしょう。女の手にしても珍らしいほどの、白い細い柔かい、指の形などのいかにも上品な――とんと形容しようもないほどに、お美しいお手でございました。
 と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹《かいき》[#ルビの「かいき」は底本では「かひき」]の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。
(あッ)と私が思いましたとたんに、吉之助様が腰を上げました。手を刀の柄《つか》へかけながら。



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