国枝史郎「犬神娘」(04) (いぬがみむすめ)

国枝史郎「犬神娘」(4)

        四

 わたしとその女とは突っ立ったままで、話しているのではありませんでした。わたしが河岸《かし》の方へ歩いて行くので、その女が従《つ》いて来て、そう小声で話しかけるのでした。
「でもねえ」とその女は云いつづけました。「そういう女が裏返ると、かえって力になるものでねえ。……綺麗なあの手に触れてからというもの、わたしは、そうさ、犬神の娘は。……それはそうと、ねえ重助さん、向こうにどんな奴が集《たか》っていたって、船頭の奴らが何をごて[#「ごて」に傍点]ようと、心配はいらないからそう思っていておくれ。……それからねえ重助さん、わたしたちのお仲間犬神の者は、四国は愚《おろ》か九州一円に、はびこっているんだから安心しておくれ。福岡にであろうと薩摩にであろうと。……じゃア重助さんさようなら、折りがあったらわたしのことを、手の綺麗なお方へおっしゃっておくれよ。……でも重助さん解ったかしら? わたしって女誰だかわかって?」
「へい、竹田街道の立場茶屋で。……」
「ああそうさ、あの時の女さ。……では重助さんさようなら」
 こういうとその女は私からはなれて、先へ小走って行ってしまいました。
(このことは吉之助様や俊斎様へ、お話した方がよいだろうか? それとももう少し封じておこうか?)と、思案のきまらない心持ちで、私はノロノロ歩いて行きました。
 するとすぐに駕籠に追いつかれました。
 距離がはなれていたためか、私とその女とが話していたことが、吉之助様たちには解らなかったらしく、どなたも何んともおっしゃらなかったので、わたしも黙っておりました。
 わたしたちは進んで行きました。
 すると柳の老木があって、濃い影を地に敷いておりましたが、そこに十数人の人がいて、こっちをじっ[#「じっ」に傍点]と窺っていました。それがどうやら捕吏らしいのです。
「どうしよう?」と俊斎様が囁かれました。
「かまわん」と吉之助様がおっしゃいました。
「船はもう眼の先にある。面倒になったら叩っ切れ」
「斬ってはならんとおはん[#「おはん」に傍点]申したが。……」
「時と場合じゃ、今はよか。……斬り払って上人を船に乗せるのじゃ。乗せてしまえばこっちのものじゃ」
「斬りたいの。久しく斬らん」
「そういう心がけで斬ってはよくない」
「フ、フ、フ、なるほどそうか」
 捕吏らしい人影の前まで来ました。
 にわかにそいつらが動き出し、五、六人が飛び出そうといたしました。
 するとさっきの女の声でした。
「妾アお供の露払《つゆはら》いの奴に、たった今謎をかけて確かめてみたのさ。人違いだよ捨てておきな。駕籠の中にいるなア女だよ」
 地面に近い二尺ばかりの宙に、小指で朱を捺《お》したような赤い火が、ポッツリ光っておりましたっけ。例の女がしゃがみこんで、煙草《たばこ》を喫っていたんですねえ。
 とうとうわたしたちは船の纜《もや》ってある岸まで、無事に着くことが出来ました。
 そこでご上人様を駕籠から出し、真っ先に船へ乗せまして、わたしたちもつづいて乗りました。
「上人船へお寝なされ」
 そう吉之助様がおっしゃいました。
 云われるままにご上人様が、つつましく船底へ横になりますと、吉之助様は自分の羽織を脱がれ、その上へ素早くお着せになり、
「さあ船夫《かこ》いそいで船を出せ」
「駄目ですよ、出せませんねえ」
 と、不意に一人の船夫《かこ》が云って、
「なアおいお前《めえ》たちそうじゃアないか」と、仲間の方へ顔を向けました。
 するともう一人の若い船夫《かこ》が、
「こんな深夜に坊様を乗せて、船を出すとは縁起が悪い。そうともよ船は出せねえ」と、合槌を打つように云ったものです。
「黙れ」と俊斎様はお怒りになり、鋭いしかし窃《ひそ》めた声で、「ぐずぐず申すとその分には置かんぞ。これ早く船を出せ!」
 こうおっしゃって刀の柄へ、もう手をかけておられました。
 でも船夫たちはますます図太く、
「へえ、斬るとおっしゃるので。ところがあっしたち斬られませんねえ。水の上ならこっちが得手で、刀を抜いてお斬りになるのが早いか、あっしたちが水へ飛び込むのが早いか、物は験《ためし》だ、やってごらんなせえ」
「水へ飛び込んだらいよいよ得手だ、船なんかすぐにもひっくりかえして見せる」
 と、こう口々に云うのでした。
「よか、まアまアそう申すな」
 吉之助様は穏《おだや》かに云われて、小粒を三つ四つ懐中《ふところ》から出され、
「これで機嫌を直してくれ、約束の他の当座の酒手じゃ」と、なだめるように申したことです。



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