国枝史郎「犬神娘」(06) (いぬがみむすめ)

国枝史郎「犬神娘」(6)

        六

 さてこの頃のことでございますが、ある日私は五反麻を出、福岡ご城下へ用達しに行きました。そうして夕暮れになりました頃、斗丈様の庵室へ帰ろうと思って、その方へ足を向けまして、ご城下はずれまで参りました。歩きつかれておりましたので、道端の石へ腰を下ろして、しばらくぼんやりしておりましたっけ。この辺は人家もたいへんまばらで、その家々も小さなもので、全体がみすぼらしく眺められましたが、私の眼の前にある家ばかりが、一軒だけ立派で宏壮でした。巡らされてある土塀も厳《いか》めしく、その内側に立っている幾棟かの建物も、やはり厳めしく立派でした。でもそのうちの一棟が、とりわけ高く他の棟から抽《ぬき》んで、しかもその屋根に千木《ちぎ》を立て、社《やしろ》めいた造りに出来ているのが、不思議に思われてなりませんでした。それにその屋敷全体が、どうやら無住の空家らしく、雨戸も窓も閉ざされていることも、何か心にかかりました。この日の最後の夕陽の光が、猩々緋のように華やかに、千木の立ててある建物の雨戸にあたって、火の燃えているように見えているのへ、わたしは無心に眼をやりながら、つかれた膝の辺を撫でていました。
「おや?」
 とわたしは思わず云いましたっけ。
 その雨戸が細目に開いて、そこから手が一本あらわれて、何かを庭へ捨てたようでしたが、すぐにまた引っ込んで、雨戸もすぐにとざされたからです。
(あの屋敷、空家ではなかったのか)この意外さもありましたが、しかしそれよりも雨戸の間から出た、白い細い上品な手――肘の上までも袖がまくれて、二ノ腕の一部をさえあらわした手が、見覚えあるように思われたことが、わたしに「おや」と云わせたのです。
(ご上人様のお手に相違ないんだがなア)
 女にもなければ男にもない、何んともいえず綺麗で上品で、勿体《もったい》ないほど優美のご上人様のお手を、たとえ遠くから瞥見したにしろ、わたしとして見違えることがあるものですか。
(あれはたしかにご上人様のお手だ。……でもしかしご上人様があんなところにおられる筈はない)
 この疑惑に苦しんで、わたしはしばらく途方にくれていました。と、その時わたしの背後《うしろ》から、咳をする声が聞こえて来ました。
 ふり返って見ますると五十歳ぐらいの、墨染めの法衣《ころも》に黒の頭巾をかむった、気高いような尼僧《あま》様が数珠をつまぐりながら、しずかに歩いておるのでした。
「尼僧《あま》様」とわたしは声をかけました。「突然失礼ではございますが、あれに見えます土塀のかかったお屋敷は、どなた様のお屋敷でございましょうか?」
 すると尼僧様はわたしを見、それから屋敷の方へ眼をやりましたが、
「あああのお屋敷でございますか、あれは世間普通のお方とは、交際《つきあい》もしなければ交際《つきあ》ってもくれない、特別の人のお屋敷なのですよ」
 と、大変清らかな沈着なお声で、そうお答えくださいました。
「世間普通のお方と交際《つきあ》わない、特別のお方とおっしゃいますのは?」
「それはねえこうなのです。そのお方が何かを欲しいと思って、それを持っている人を見詰めた時、その人がそれを与えればよし、与えない時にはその人の身の上に、恐ろしい災難が落ちて来るという……」
「ああではとっつき[#「とっつき」に傍点]なのでございますね」
「そう、ある土地ではとっつき[#「とっつき」に傍点]と云い、あるところでは犬神《いぬがみ》ともいいます」
「犬神※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とわたしは思わず叫びました。「あの女も犬神だった!」
 竹田街道の立場茶屋や、土佐堀の岸で逢った例の女のことを、忽然思い出したからでございます。
「でもあの屋敷はずっと長い間、空家になっているのですよ」
 と、そう尼僧《あま》様が云いましたので、わたしは尼僧様の方へ眼をやりました。尼僧様は歩き出しておりました。
「いえ、ところが、雨戸が開いて、たった今綺麗な手が出たのです」と、私は云い云い腰を上げました。
 でも尼僧様は何んにも云わないで、わたしのことなど忘れたかのように、少し足早に五反麻の方へ、歩いて行っておしまいになりました。
 それでもわたしはなお未練らしく、眼の前の屋敷を見ていました。すると土塀の正面の辺に、頑丈な大門がありまして、その横に定式《おきまり》の潜門《くぐり》がありましたが、その潜門《くぐり》が内側《なか》から開きまして、一人の男が出て来ました。
(やはり空家ではなかったのだな)こう思いながらわたしはその男へ近寄り、
「ちょっと物をおたずねいたします」と、こう声をかけました。
「何んですかい?」とその男は云いましたが、わたしの顔をすかすようにして眺め、変に気味悪く笑いました。



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