国枝史郎「犬神娘」(09) (いぬがみむすめ)

国枝史郎「犬神娘」(9)

        九

 彼らは捕吏の一部でした。さっきかた斗丈庵へ押しよせて来た、その捕吏の一部でした。そうしてその中に例の男――竹田街道の立場茶屋や、この屋敷の門前で逢い、斗丈庵では望東尼様の頭巾を、かなぐりすてましたところの例の男がいて、それが屋内に呼びかけていました。
「お綱、出て来い! ヤイ下りて来い!」
 でも屋内からは返辞がなく、森閑としておりました。
「来ないか、来なければ俺が行くぞ!」
 またその男は叫びました。
 しかし依然として屋内からは、何んの返辞もないらしく、森閑としておりました。
「行きな、親分、とり逃がしたら事だ」
「姐ごは心変わりしたんですぜ。……今ではあべこべに敵方で。……ですから親分踏み込んで行って……」
 集まっている捕吏の口々から、そういう声々が叫ばれました。
「うむ、そいつは知ってるが、ここは迂濶《うかつ》にはいれない、あらたかなところになっているのだからなあ」
「あらたかもクソもあるものですかい。あっしたちの手入れの先廻りをして、お尋ね者を連れ出して、かくまっている姐ごじゃアありませんか。よしんばそいつが親分の情婦《いろ》にしたところで……」
「そうともよ、見遁がせねえなあ」
「そいつを愚図愚図しているようなら、目明し文吉の兄弟分、三条の藤兵衛とはいわせませんぜ」
「うるせえヤイ!」と藤兵衛という男は、突然怒り声をひびかせましたっけ。「そうまで手前たちにいわれちゃア。……お綱、いよいよ下りて来ねえか、よーしそれじゃアこっちから行く! ……手前たちここに待っていろ、俺ひとりで踏み込んで行くから」
 藤兵衛という男の勢い込んで、門口《かどぐち》から屋内へ駆け込んで行く姿が、すぐにわたしたちの眼に映りました。と、その後しばらくの間は、ひっそりとしておりました。でも俄然「わーッ」という声が、門口に群れている藤兵衛の乾児《こぶん》――捕吏たちの間から湧き起こり、つづいて蜘蛛《くも》の子を散らすように、四方へ逃げ出したという意外な出来事が、惹起《ひきおこ》されたではありませんか。
「重助、行こう、さあこの隙に!」
 国臣様が走り出しましたので、わたしもついて走りました。
 しかし千木《ちぎ》のある建物の、その門口まで走りついた時には、わたしも国臣様も「あッ」と叫び、思わず足を止めてしまいました。
 肩から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取られた男の片腕が、まだ血を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]げ口から吐きながら、土間にころがっているからです。
「怯《おじ》けるな、行け!」
 と国臣様が叫び、はじめてお腰の刀を抜かれ、左の袖で蔽うようにされ、上がり框《がまち》からすぐに二階へ、ゆるい勾配につづいている広い階段を、飛ぶようにお駈け上がりなさいましたので、夢中でわたしも駈け上がりました。階段をあがりきった時でした、笑うとも嘲けるともたしなめる[#「たしなめる」に傍点]とも、どうともとれるような不思議な気味の悪い、鬼気を帯びた嗄《しわが》れた女の声で、
「まだ懲りぬか! ここへ来てはならぬ!」
 と、そういうのが聞こえて参りましたが、つづいて何かが投げつけられました。
「…………」声も出されずわたしはへたばってしまいました。肩から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎとられた片腕が、わたしの胸へあたったからです。
 へたばったままで顔を上げて、奥の部屋を見た時のわたしの恐怖は! おお何んと云ったらいいでしょうか! ともかくもわたしの一生を通じて、忘れられないものでございました。
 一匹の巨大な白犬が、人間の男を抱きすくめ、その喉笛《のどぶえ》を食い裂いているのです。
 犬神の娘のお綱という女が、巫女《みこ》の着る白い行衣を着、裾まで曳きそうな長い髪を、顔や肩へふり乱し、両腕を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]がれて呼吸《いき》絶えているらしい藤兵衛という男を両手で抱きすくめ――後で聞いたことではございますが、この藤兵衛という目明しは、梅田源次郎様その他の志士を、あらゆる姦策をもって捕えました結果、自分も志士方に惨殺された、有名な京都の目明し文吉、この男の兄弟分でありましたそうで、そうしてお綱の情夫だったそうで、そうしてご上人様を捕えようとして、京都から浪速、九州と、つけ廻して来た男だったそうでございます。――その藤兵衛という男を抱きすくめ、その藤兵衛という男の咽喉《のど》を食い裂いた、血だらけの口、血だらけの顔を、藤兵衛という男の肩ごしに、わたしたちの方へ向けながら、怒りの眼《まなこ》を光らせている様子は、全く白犬が人間の男を、食い殺しているとそういう以外、いうべき言葉はありませんでした。古び赤茶け、ところどころ破れ、腸《わた》を出している畳の上には、蘇枋《すおう》の樽でも倒したかのように、血溜りが出来ておりました。おお血といえば行衣姿のお綱の、胸から腹から裾の下まで、血で斑紋をなしているのです。血で縞をなしているのです。この凄まじい光景には、さすがの国臣様も怯えましたものか、抜き身を頭上にふりかぶったままで、進みもなさらず退きもなさらず、小刻みに肩を刻んでおられました。でもわたしはこういう際にも、ご上人様はどこにおられるかと、座敷の四方を見廻しました。おおご上人様はおられました。遙かの奥に古び色ざめた、紫の幕が下げてあり、金襴縁《きんらんべり》の御簾《みす》がかけてあり、白木ともいえないほど古びた木口の、神棚が数段設けられてあり、そこに無数の蝋燭が、筆の穂のような焔を立てて、大きな円鏡の湖水《みずうみ》のような面《おもて》を、輝かせながら燃えていましたが、その前の辺に俯伏しになられ、凄まじい惨酷な光景を見まいと、両の袖で顔を蔽われて、月照上人様はおられました。
 でもどうしたらそのご上人様を、この恐ろしい犬神の祈祷所《きとうしょ》から、連れ出すことが出来るでしょうか? ただわたしは喘《あえ》いでばかりおりました。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送