国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(03) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(3)

        三

 こういうことがあってから、幾日か経ったある日のこと、お品の家で、お品と新八郎とが、しめやかな声で話していた。
「お品、私はお前をいとしく[#「いとしく」に傍点]思うよ。お前一人だけを。……お前も私をいとしく[#「いとしく」に傍点]思ってくれるだろうね。裏切りはしまいね。この私を。……私は女に裏切られた男だ」
 新八郎はこういうように云って、自分の前へつつましく坐り、うなだれているお品の額へ、そのきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な手をやった。ほつれている髪を上げてやったのである。お品は頷《うなず》くばかりであった。
(妾《わたし》もほんとにこのお方が好きだ。何の妾が裏切ろう。妾は決して裏切りはしない。でも、ある強い外界からの力が、妾を裏切らせようとしている)
 お品にはこれが苦しかった。どう云って返辞をしてよいか? それも解らなかった。頷くばかりで黙っている理由《わけ》はこれであった。
 ふとお品は新八郎へ訊いた。
「お勘定奉行の松本伊豆守様とおっしゃいますお方は、どういうお方なのでございましょう」
「厭な奴らしい」
 新八郎は吐き出すように云った。
「賄賂取りの名人だ。自分でも随分賄賂を使う。田沼侯へ贈賄して、あれまでの位置になった奴だ。……だがそれがどうかしたかな」
「はい。……いいえ」
 と曖昧《あいまい》に云った。そう曖昧に云って置いて、お品は愁然とした。
「そのお方のご用人だとかいうお方が……」
「お前を見初めたとでも云うのかな?」
「でも妾はどうありましょうとも。……」
「…………」
 この日の午後は晴れていて、この家の裏庭に向いている障子へ、木の枝の影などが映っていた。

 その同じ新八郎が、ある夜往来《みち》で声をかけられた。
「お気の毒なお身の上でございますのね。でも、あの娘ごの罪ではございません。さりとて、松本伊豆守様の罪ばかりとも申されません。元兇は他にあります。……×××町を通り、△△町を過ぎ、□□町を行き抜け、○○町まで行き、そこで認めた異形の人数をどこまでもつけ[#「つけ」に傍点]ていらっしゃいまし。自ずとわかるでございましょう」
 それは女の声であった。
(おや?)
 と新八郎は驚きながら、声の来た方へ眼をやった。お高祖頭巾を冠っている。上身長《うわぜい》があって肥えている。そう云う女が土塀に添って、一人で立っている姿が見えた。
 新八郎は不思議そうに訊いた。
「あなたはどなたでございますか?」
 しかし女は答えなかった。
「お品のことについて云っておられますので?」
「はい。……そうしてもう一人の、お気の毒な女の方についても」
「ああそれではお篠のことについて?」
 すると女は頷いて見せた。
「妾をお信じなさりませ。云う通りに実行なさりませ」
(何んと云う眼だ! 何んと云う声だ!)
 新八郎はそう思った。
 お高祖頭巾の奥の方から、彼を見詰めている彼女の眼が、男のような眼だからであった。声にも著しい特色があった。男の声のように強かった。
(お品のことを知っている。お篠のことを知っている。この女はいったい何者なのであろう?)
(こんな所にこんな晩に、女一人で供も連れず、何んと思って立っているのか?)
(俺に云いかけたこの女の言葉! 親切なのか不親切なのか)
 新八郎は疑惑を感じながら、立ち去ることも出来ず立っていた。



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