国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(08) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(8)

        八

「私のお父上のご生存中は、田沼という男も今日のように、ああも僣上《せんじょう》な真似はしなかった」
「それはさようでございましょうとも。殿のお父上右近将監様は、御老中におわすこと三十八年、その間にご加増をお受け遊ばしたこと、わずか六千石でございました。いかにご忠正でご謙謹で、お身をお守り遊ばすことが、お固すぎるほどお固うございましたことか」
「将軍家《うえさま》が田沼をご寵愛のあまり、度々ご加増遊ばされたが、ある時のご加増に田沼は憚《はばか》り、私のお父上に意見を訊いたそうだ。するとお父上は云われたそうだ。『そなたの秩《ちつ》はまだ五万石以下だ。五万石まではよろしかろう。と云うのは徳廟『吉宗』公様が、秩五万に充たざる者は、積労によって増すべきであると、こう仰せ遊ばされたからだ。……今、将軍家《うえさま》よりの命があって、そなたがご辞退致したとあれば、一つには将軍家へ不恭となり、二つには将軍家の過贈の非を、世間へ知らせることになる。だからご加増は受けるがよろしい』と。……その時田沼は感激して、涙を流したということだ。……それだのに私のお父上が、この世を辞してからというものは、千恣《し》百怠《たい》沙汰の限りの態だ。売官売勲利権漁り、利慾を喰わしては党を作り、威嚇を行っては異党を攻め、自己を非議する識者や学徒の、言説を封じ刊行物を禁じ、美女を蓄わえて己《おのれ》楽しみ、美女を進めて将軍家を眩まし、奢侈《しゃし》と軟弱と贈収賄と、好色の風潮ばかりを瀰漫《びまん》させておる。……老中、若年寄、大目附、内閣は組織されていても、田沼一人に掣肘《せいちゅう》されて、政治の実は行われていない。……こういう時世には私のような男が、一人ぐらい出る必要がある。お父上が老練と家柄と、穏健と徳望とを基にして、老中筆頭という高官にあって、田沼の横暴を抑えたのを、私は年若と無位無官と、過激と権謀術数と、ある意味における暴力とを基とし、表面には立たず裏面にいて田沼の横暴を膺懲《ようちょう》するのだ。……私のような人間も必要だ」
「必要の段ではございません。大いに必要でございます。でありますから世間では、殿様のことをいつとはなしに『館林様』とこのように申して、恐ろしい、神のような、救世主のような、そういう人物に空想し、尊び敬い懐しんでおります。……がしかし殿にはどう遊ばしましますので? これからどこへいらせられますので?」
「もう用事は済んだのだ。……証拠を捉えようと企んだ仕事が、今、成功したのだからな。で家へ帰ってもいいのだ。がしかし私は笑ってやりたい。で、もう少し行くことにしよう」
「あの行列の後をつけて?」
「そう、行列の後をつけて。そうしてその上であの行列が、あそこの門を何も知らずに、得意気にくぐってはいるのを見て、大声で笑ってやりたいのだ」
「殿らしいご趣味でございます」
「趣味といえばどうにも六人男の連中、あくど[#「あくど」に傍点]過ぎて少しく困る」
「根が不頼漢でございますから」
「云い換えると好人物だからさ」
「無頼漢が好人物で?」
「こんな時世に命を惜しまず、感激をもって事を行う! 気の毒なほどの好人物だよ。……仕事を成功させてからも、伊豆守を討って取ろうとして、横町から本通りへ引っ返して来て、再度の切り込みをしたことなどは、好人物の手本だよ」
「仕事と仰せられ、成功と仰せられる、どのような仕事なのでございますか?」
「家へ帰ってから話してあげよう」
(ふうん、あのお方が『館林様』なのか? 館林様のご本体は、では甲斐の国館林の領主、松平右近将監武元卿――従四位下ノ侍従六万千石の主、遠い将軍家のご連枝の一人、三十八年間も執政をなされた、その右近将監武元卿の公達、妾腹のご次男でおわすところから、本家へはいらず無位無官をもって任じ、遊侠の徒と交わられ、本家では鼻つまみ[#「つまみ」に傍点]だと云われている。松平冬次郎様であられたのか)
 後からつけながら二人の話を、洩れ聞いた小糸新八郎は、そう知って驚かざるを得なかった。
(そういう人物でおわすなら、たった一言二言で、あれだけの争闘をお止めなされた筈だ)
 松平冬次郎の事蹟については、今日相当に知られている。すなわち天明八年の頃、上州武州の百姓が、三千人あまり集まって、五十三ヵ村を鳩合《きゅうごう》して、絹糸改役所という、運上取り立ての悪施政所の、撤廃一揆を起こした事があったが、裏面にあって指揮をした者が、この松平冬次郎であった。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村について六両二分ずつの、臨時税を課するという誅求《ちゅうきゅう》を怒って、数ヵ月にわたって暴動を起こしたが、この時の蔭の主謀者も、松平冬次郎その人であった。天明七年五月に起こり、関西から関東に波及して、天下の人心を騒がせた、米騒動ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]事件! その事件の主謀者も、彼であったということである。
 ところで田沼時代には、天変地妖引きつづいて起こった。その一つは本郷の丸山から出て、長さ六里、広さ二里、江戸の大半を焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱《ひでり》や大暴風雨や洪水、数万の人民はそれがために死に饑《う》え苦しみ流離したが、そういう場合に施米をしたり、人心を鼓舞したり富豪を説いたりして、特別の救助をさせた者があったが、彼であったということである。
 で、一種風変わりの社会政策実行者としては、この、松平冬次郎は、日本裏面史の大立て者なのであった。
 そういう松平冬次郎の「館林様」が供の侍を連れて、今歩いて行くのである。以前にも増して小糸新八郎が、興味と尊敬とに誘われて、後をどこまでもつけて行ったのは、当然のことと云わなければなるまい。早春の深夜の朧月が、江戸の家々と往来と、木立と庭園と掘割と、掘割の船とを照らしている。



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