国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(25) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(25)

        三

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※[#歌記号、1-3-28]かすかに見ゆる
 やまのみね
 はれているさえなつかしし
 舟のりをする身のならい
 死ぬることこそ多ければ
 さて漕ぎ出すわが舟の
 しだいに遠くなるにつれ
 山の裾辺の麦の小田《おだ》
 いまを季節とみのれるが
 苅りいる人もなつかしし
 わが乗る船の行くにつれ
 舟足かろきためからか
 わが乗る船の行くにつれ
 色も姿もおちかたの
 ふかき霞にとざされぬ
 われらの舟路! われらの舟路!
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 それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうたい止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾《わたし》はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣《あざ》のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾《かし》げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
 しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
 京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
 こう云って来て貴人のような武士は、円行灯《まるあんどん》の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾《かし》げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
 窓の外は狭い坪庭《つぼにわ》であって、石灯籠や八手《やつで》などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき[#「つき」に傍点]物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢《けはい》がしたが……」

 この頃十二神《オチフルイ》貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
 本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
 夜警の拍子木の音がした。



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