国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(29) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(29)

        七

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(幽暗なる世界なるかな
蠱物《まにもの》めきしたたずまいなるかな
ここにある物は「現在」の頽廃、ここにある物は過去への思慕、ここに住める物は生ける亡霊、この部屋へ入る者は襲わるべし)
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 こういう箴言《しんげん》が壁の一所に、掲げられていなければ不似合いである。――と、そんなように思われるほど、この部屋は陰気で悲し気で、他界的で気味が悪かった。
 京一郎の父で塩屋の主、お才の良人《おっと》の嘉右衛門が、十数年来孤独に住んでいる、庭の奥の林の中の、廃屋の中の部屋であった。万国地図と海図との懸かった、一方の壁へ背を向けて、背革紫檀の古風で寛濶な、肘掛椅子に腰をかけ、嘉右衛門はバラードを弾いている。六十歳ぐらいの年齢《とし》でもあろうか、頭髪は晒らした麻のように白く、頸《うなじ》にかかるまで長かったが、もう一度世に出る機会が来た時、穢れていては恥であると、そんなように思った心持ちからか、丁寧《ていねい》に手入れされていた。
 鋭い眼、食いしばったような口、大資本家型の猶太《ユダヤ》鼻、嘉右衛門はそういう顔をしていたが、右のこめかみに拇指《おやゆび》大の痣《あざ》が紫がかった黒い色に、気味悪く染め出されているために、不吉な人相をなしていた。長身であり肥大であった。で体格は立派なのであった。
 そういう彼と向かい合って、同じような椅子に腰をかけている、三十五、六歳の武士があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
 その二人を取り巻いて、床の上や壁の面に、雑然と掛けられ置かれてある品の、何んと異様であることか。望遠鏡があり帆綱があり、羅針盤があり櫂《かい》があり、拳銃があり洋刀があり、異国船の模型があり、黄色く色づいている龍骨があり、地球儀があり、天気験器《ウェールガラス》があり、写真器《ドンクルガラス》がありホクトメートルがあった。
 壁に添ってハンモックが釣るされてあったが、そこには、人間が寝ていずに、和蘭《オランダ》あたりの船長でも着そうな、洋服が丸めて置いてあった。
 が、そういう品々は、十数年間人の手によって、手入れをされたことがないと見え、錆《さ》び、よごれ、千切れ、こわれ、塵埃《ちりぼこり》にさえも積もられていた。しかしそれよりもそういう品々やそういう人々を包んでいる、部屋の内部の構造《つくり》の、何んと不思議であることか。天井は黒く塗られている。壁も黒く塗られている。柱も黒く塗られている。壁にあるのは円形の窓で、天井にあるのはこれも円形の、玻璃《はり》で造られた明《あか》り窓《まど》で、そこに灯火《ともしび》が置いてあると見え、そこから鈍い琥珀色の光が、部屋を下様に照らしていた。それにしても天井が蒲鉾《かまぼこ》形に垂れ、それにしても四方の黒い壁が、太鼓の胴のそれのように、中窪みに窪んでいるというのは、いったいどうしたことなのであろう? こういう構造《つくり》は欧羅巴《ヨーロッパ》あたりの、商船のサロンの構造《つくり》ではないか。……まさに、それはそうであった。商船のサロンに則《のっと》ってつくった、部屋に相違なかった。
 思うに嘉右衛門が十数年前、この部屋へ世を避けてこもった時、考えるところあってこういう部屋をひそかに造ったものと見える。
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※[#歌記号、1-3-28]われらが舟路! われらが舟路!
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 最後の歌が終っても、尚バラードは鳴っていた。眼を閉じ追想にふけりながら、嘉右衛門が弾いているからであった。
 その嘉右衛門の顔の上に、天井から光が射していて、額を明るく照らしていた。顔を上向けているからである。閉ざされた眼の下瞼《したまぶた》の辺に――眼窩が老年で窪んでいるのでかなり濃い陰影がついていて、それが彼の顔を深刻にしていたが、尚その後をうたいつづけようとして、なかば開けた唇を、幽《かす》かに顫《ふる》わせている様子と、頬に青年のような血の色が、華やかに注《さ》している様子が、亢奮と感激と思慕と憧憬とに、充たされた顔をなしていた。
(さあもう一息だ! 一息でいい! もう一息で秘密は解けるだろう)
 向かい合って腰かけて嘉右衛門の顔を、熱心に見詰めていた貝十郎は喜びをもってこう思った。
(よし、もう一息駆り立ててやろう)で、彼はそそののかすように云った。
「空にまで届く大龍巻、丘のように浮かぶ大鯨。鰯《いわし》の大軍を追っかけて、血の波を上げる鯱《しゃち》の群れ、海の出来事は総て大きい! 赤い帆が見える! 海賊船だ! 黒い船体が島陰から出た! 真鍮《しんちゅう》の金具、五重の櫓、狭間《はざま》作りの鉄砲檣《がき》! 密貿易の親船だ! 麝香《じゃこう》、樟脳、剛玉、緑柱石、煙硝、氈《かも》、香木、没薬《もつやく》、更紗、毛革、毒草、劇薬、珊瑚、土耳古《トルコ》玉、由縁ある宝冠、貿易の品々が積んである! さあ、日が落ちた、港へはいれ! 黎明《れいめい》が来たぞ、島へ隠れろ! ……大金がはいった、さあ上陸だ! 酒場、踊り場、寝台のある旅舎《はたご》! どれでも選べ、女を漁《あさ》れ! 飲め、酒だ、歌え! それよりもだ、バラードを鳴らして!」
 絶えようとしていたバラードの音が、この時活気を呈して来た。そうして嘉右衛門の見開かれた眼に、燠《おき》のような光が燃えて来た。
(歌うぞ?)と貝十郎は首を伸ばした。
(いよいよあの歌の次を歌うぞ!)亢奮せざるを得なかった。
 当然と云ってよいのである。彼はその歌を聞きたいがために、この夜ごろこの部屋へ入り込んで来て、なかば放心しなかば狂気し、しかも再び密貿易商として、海外へ雄飛しようとする夢を執念深く夢見していて、そのために気むずかしくなっており、そのために尊大になっており、あつかい悪《にく》くなっている、塩屋の主人の嘉右衛門を、すかしたりなだめ[#「なだめ」に傍点]たりおだて[#「おだて」に傍点]たりして、そうして絶えず亢奮させ、そうして絶えず昔を思い出させ、昔歌ったあの歌のつづきを、歌わせようと苦心をした、その苦心が報いられようとするのであるから。
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(あの歌に秘めてある秘密などは、暗号というものの性質を、少しでも知っている人間にとっては何んでもなく解ける種類の秘密だ。一句一句の頭文字と、一句一句の末の文字とを、つなぎ合わせればそれで解ける秘密だ。最初の一句の頭文字は「か」という文字に他ならない。その次の句の末の末字は「ね」という文字に他ならない。こうしてつないで[#「つないで」に傍点]行くことによって、秘密は解けてしまうのだ。そうして俺は秘密を解いた。が、あれだけでは仕方がない。そうさ、「金は石の下、石は川の縁」と云ったところで、その川がどこの川だやら、その縁がどの川のどの辺の縁やら、解らないことには仕方がない。それを説明しているのが、後へ続く歌なのだ)
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(後へ続くその歌を!)
 はたして嘉右衛門は歌い出した。
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※[#歌記号、1-3-28]………………
  ………………
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 しかし言葉をなさない前に、にわかに歌うのを止めてしまい、顔を窓の方へやったかと思うと、
「汝《おのれ》ら、秘密を盗みに来たか!」
 こう叫んで立ち上がった。が、その次の瞬間には、腐った木のように床の上に仆れた。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてこれも立ち上がり、貝十郎は窓の方を見た。彼の眼に映ったものといえば、この家の伜の京一郎の顔と、お蝶のその実はこの時代の盗賊、六人男といわれている賊の、その中の一人の女勘助の、妖艶をきわめた顔であった。
「馬鹿め! あったら大事なところを!」
 貝十郎は残念そうに叫び、身をかがめて嘉右衛門の手を取った。が、その手には脉《みゃく》がなかった。激情が彼を殺したのである。

 後日、貝十郎は人に語った。
「嘉右衛門は本来密貿易商として、刑殺さるべき人間なのでしたが、財産を田沼侯へ差し上げたので、命ばかりは助けられたのでした。全財産を献じたと云っても、それは実は表向きで、彼は以前から大きな財産を、ひそかに隠して持っていて、その隠し場所を歌へ詠《よ》み込み、機嫌のよい時に一人で歌って、楽しんでいたということです。そうして女房だけへは云ったそうです。『京一郎が二十五にでもなり、俺の事が官から忘れられた頃、その財産を取り出して、昔のような豪快な、海の上の生活をやることにしよう』と。……そういう秘密の歌のことを、どうして館林様が知ったものか――ああいう叡智《えいち》のお方だから、どこからかお知りなされたのであろう。――秘密の歌の前半まで知って、後へつづく歌を知ろうとなされた。と云って嘉右衛門に強いて訊いても、剛愎の嘉右衛門が話すわけはない。伜の京一郎から訊かせたら、親子の情で話すだろう。……そこで手下の六人男と謀り、京一郎を玉にしたのでした。……あの時の喧嘩はカラクリなのでした。お蝶――女勘助の家へ――あの家は彼らの巣だったのでした。……逃げ込ませようためのカラクリだったのでした。それからの事はお話しなくとも推量する事が出来ましょう」



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