国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(30) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(30)

    木曽の旧家


        一

「あれーッ」
 と女の悲鳴が聞こえた。貝十郎は走って行った。森の中で若い美しい娘が、二、三人の男に襲われていた。しかし貝十郎の姿を見ると、その男達は逃げてしまった。
「娘ご、どうかな、怪我《けが》はなかったかな」
「はい、ありがとう存じます。おかげをもちまして」
「それはよかった。家はどこかな、送って進ぜる、云うがよい」
「はい、ありがとう存じます。すぐ隣り村でございまして、征矢野《そやの》と申しますのが妾《わたし》の家で……あれ、ちょうど、家の者が……喜三や、ほんとに、何をしていたのだよ……」
「お嬢様、申しわけございません。道で知人《しりあい》に逢いましてな」
 手代風の若者が小走って来た。こういう事件のあったのは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。

 その翌日のことである。
「どなたか! あれーッ、お助けください!」
 若い女の声がした。で、貝十郎は走って行った。駕籠舁《かごか》きが娘を駕籠へ乗せて、今やさらって行こうとしていた。
「こいつら!」と貝十郎は一喝した。駕籠舁きが逃げてしまった後で、貝十郎は女を見た。
「や、昨日の娘ごではないか」
「まあ」と娘も驚いたようであった。「あぶないところを重ね重ね」
「それはこっちでも云うことだが……」
「あれ、幸い家の者が……」
 三十五、六歳の乳母らしい女が、息をはずませて走って来た。
「お三保様、申しわけございません」

 その翌日のことであった。木曽川の岸で悲鳴がした。
(ひょっとするとあの女だぞ)
 思いはしたが貝十郎は、声のする方へ走って行った。筏師《いかだし》らしい荒々しい男が、お三保を筏へ引きずり込み、急流を下へ流そうとしていた。しかし貝十郎の走って来るのを見ると、筏師と筏とは川下へ逃げた。「娘ご、これで三度だな」「重ね重ね、ほんとうにまあ……」「隣り村はなんという村だ?」「駒ヶ根村でございます。……爺や、お前、何をしていたのだよ」「はいはいお嬢様、申しわけもない……」
 六十近い下僕《しもべ》らしい男が、汗を拭き拭き走って来た。
(あれ、幸い、家の者が――と云う段取りになったという訳か)貝十郎は思い思い別れた。
(俺を釣ろうとの計画とも見えれば、連続的偶然の出来事とも見える)旅籠屋舛屋《ますや》へ帰ってからも、貝十郎は考え込んだ。
(よし、面白い、探って見よう)で、翌日駒ヶ根村へ出かけた。
 用があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった。
 与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男《ダンデー》であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守などとは、そういう点で憚《はばか》りのない、友人交際《つきあい》をしていたので、そういうわがままは大目に見られていた。
 上松の宿まで来た時である。貝十郎は茶店へ休んだ。
「征矢野という家がこの辺にあるかな?」
 茶店の婆さんへ何気なく訊いた。
「へい、いくらでもございますだ」
「ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ」
「木曽は美人の名所でごわしてな」
「有難う」と貝十郎は笑って受けた。「婆さんなんかもその一人だね」
「へい、御意《ぎょい》で、三十年前には」
「三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……」
「あれ、お三保お嬢様のお家でがすか」
「さよう。お前の親戚かな」
「とんでもねえ」と婆さんは撥ねた。「勿体もねえご旧家様でごわす」
「そのご旧家様、どこにあるかな?」



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