国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(35) (オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)

国枝史郎「十二神貝十郎手柄話」(35)

        六

 廊下の片側が雨戸になっていて、その一枚が開いていたので、そこから裏庭へ出て行った時にも、貝十郎の酔は醒めていなかった。
 遅い月が出て植え込みの葉が、いぶし銀のように光っている蔭から、男女の話し声が聞こえて来た時には、しかし貝十郎も耳を澄ました。
「おい豊ちゃんどうなんだい」
「鏡ちゃん、駄目だよ、まだなんだよ」
「駄目、へえ、どうして駄目なんで?」
「あの人どうにも固いのでね」
「何んだい、豊ちゃん、意気地《いくじ》がないなあ」
「鏡ちゃんだって意気地がないよ。二度も三度も縮尻《しくじ》ったじゃアないか」
「邪魔がそのつど出やがるのでね。それもさいつも同じ奴が。江戸者らしい侍なんだよ」
「江戸者らしい侍といえば、妾もそういうお侍さんへ、酒を飲ませて酔いつぶしてやったよ」
「邪魔の奴はつぶ[#「つぶ」に傍点]してしまうがいいなあ。……でないといい目が見られないからなあ。……豊ちゃんと俺《おい》らとのいい目がさ」
「そうとも」と女の声が云った。愛を含んだ声[#「含んだ声」は底本では「含ん声」]であった。
「そうとも二人のいい目がねえ。……妾《わたし》アお前さんが可愛くてならない」
 それっきり、声は絶えてしまった。
(オーヤ、オーヤ)と貝十郎は思った。(ここでも媾曳《あいびき》が行われている。悪党同士の媾曳だ。鏡太郎とそうしてお豊とらしい)(悪くないな)としかし思った。(罪悪のあるらしい旧家の裏庭で、美貌の若者と美貌の女とが、月光に浸りながら媾曳をしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! そいつを与力が立ち聞きしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! ……厭だよ、こんないい光景を「御用だ!」などという野暮な声を出して、あったらぶち壊してしまうのは。……こっそり逃げて帰ってやろう)
 酔がさせる業であった。与力の方から逃げ出したのである。
 彼は家へははいらなかった。庭を巡ってどこまでも歩いた。
 宏大な建物を囲繞《いにょう》して、林のようにこんもりと、植え込みが茂っている庭であり、諸所に築山や泉水や、石橋などが出来ており、隔ての生垣には枝折戸《しおりど》などがあったが、鍵などはかかってはいなかった。幾個《いくつ》かの別棟の建物があり、厩舎《うまや》らしい建物も、物置きらしい建物も、沢山の夫婦者の作男達のための、長屋らしい建物もあった。夜が更けているところから、どの建物からも灯火《あかり》は射さず、人の声も聞こえなかった。厩舎の前まで行った時、ませ[#「ませ」に傍点]棒を蹴っていた白い馬が、人なつかしそうに首を伸ばし、太い鼻息をして貝十郎を迎えた。横射しに射していた月光が、その長い顔をいよいよ長く見せた。
 貝十郎は彷徨《さまよ》って行った。と、行く手に建物があり、そこから灯火が射していた。主屋と五間ほど離れた所に、独立して建ててある建物であって、二間か三間かそれくらいの座敷を、含んでいる程度の大きさであり、主屋とは幾個かの飛び石をもって、簡単に連絡されていた。風変わりの建物でもなかったが、頑丈にしかして用心堅固に、造られているように見て取られた。三方厚い壁であり、その壁々には明りとりの、鉄格子をはめた窓ばかりが、わずかについているばかりであった。主屋《おもや》に向いた方角に、出入り口がついていた。土蔵づくりの建物なのである。燈火は出入り口から射していた。戸をとざすのを忘れたからであろう。射している光もほんの幽《かす》かで、他の幾棟かの建物から、同じように光が射していたら、紛れて気づかれないほどであった。
 貝十郎はそっちへ進んだ。入り口の前まで歩いて行った時、彼は女の泣き声と、そうして男の叱る声とを、その建物の中から聞いた。
(オーヤ、オーヤ)と彼は思った。(ここでは女が虐められている。反対側のあっちの庭では、男と女とが愛撫し合っていたが)
 彼はしたたかに酔っていた。そうして彼は与力であった。与力としての精神と、酔漢としての戯心《たわむれごころ》とで、彼は真相を知ろうと思った。
 で、足音を忍ばせて、建物の中へはいって行った。泣きながら女の喋舌《しゃべ》る声が、すぐ彼へ聞こえて来た。
「妾《わたし》、もうもう待てません。……これではまるで嫐《なぶ》り殺しです。……今夜こそ……どうしたって……でなかろうものなら……」
 男の叱る声が聞こえた。
「ね、あっちへ行っておいで。……お前の心は解っているよ。……が、しかしそう性急には……物事にはすべて順序がある。あの……娘《こ》を……ね、三保の方を……三保は年頃になっているのだから。……それに私《わし》には仕事がある。……これもどうしたって仕上げなければならない。……だからこそ私《わし》はこんな所へ……ああそうだよ。こんな所へこもって……」
 泣きながら反対する女の声がした。
「ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!」
「これ、お豊! 何を云うのだ!」
「旦那様! いいえ隼二郎様」
「お豊、私《わし》はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ」
「妾《わたし》も、ええ妾《わたし》もですの」二人の声はここで切れた。
(さて)と貝十郎は苦笑して思った。(この後は抱擁ということになるのさ)
 彼の足下には二尺幅ぐらいの、狭い廊下が左右に延び、同じくらいの狭い廊下が、前方へ向かっても延びていた。丁字形になっている廊下の中央に、彼は佇んでいるのであった。その前方に延びている廊下の、右側に大きな部屋があり、部屋の扉が開いているので、燈火と人声とが洩れて来るのであった。数歩進んで扉の口まで行き、そこから内を覗いたなら、内の様子は見えるのであった。内部の一部――床の端だけは、ここにいる貝十郎にも見て取れた。畳が敷いてないのである。板張りになっているのである。
(お豊とそうして隼二郎なのか。……いや、腕の凄い女ではある。あっちの庭では年の下の、美少年と媾曳をしたかと思うと、こっちの部屋では年の上の、金持ちの旦那を口説いている、同じ晩にさ、わずかの時間にさ。……あんな女は都会にも少ない。どうにも俺は田舎が嫌いだ)



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