国枝史郎「赤格子九郎右衛門」(3) (あかごうしくろうえもん)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門」(3)

     三

 以上は「緑林黒白」中の、逸話の一節を書換たものであるが此時は既に九郎右衛門は七十一歳になっていたそうで、其の老体を持ちながらそれ程の働きの出来た所を見ると、確かに居合は名人であったらしい。
 偖《さて》、それほどの剣技を持ち、加之《しかも》忍術の達人たる彼九郎右衛門は其壮年時代を――特に海上雄飛時代を、どんな有様で暮らしたろう? それこそ洵《まこと》に聞物である。そして夫れこそこの私が語り度いと思う題目なのである。
 元和元年八月二十四日に――信長、秀吉の殊寵を受け、わけても関白秀吉の為めには、朝鮮征伐の地勢調査として自ら韓人に変装し、慶尚、京畿、平壌などを、詳《つまびら》かに探って復命したほどの、大貿易商であり武人である所の――島井宗室は病歿した。享年七十七であった。
 遺命を受けた九郎右衛門が、宗室の次子を家督に据え、二代目宗室の命に依って、南洋の呂宋へ旅立ったのは、其翌年の三月であった。
 此時、九郎右衛門は、三十歳、膏の乗った盛りである。蜀紅錦の陣羽織に黄金造りの太刀を佩き、手には軍扇、足には野袴、頭髪《かみ》は総髪の大髻、武者草鞋《わらじ》をしっかと踏み締めて、船首に立った其姿! 今から追想《おも》っても凛々しいでは無いか。
 所謂今日の澎湖諸島の、漁翁島まで来た時には七月も中旬になっていた。
 船中へ真水を汲み入れるため船は数日馬公の港へ碇泊しなければならなかった。毎年の事なので島の土人とも以前から了解《はなしあい》が出来ていて、襲撃される心配はない。
 明日はいよいよ出帆という、その前夜の事であったが、九郎右衛門はただ一人、島の渚を彷徨っていた。
 折柄満月が空に懸かり、※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》たる海上は波平らかに、銀色をなして拡がっている。塁々と渚に群立っている巨大な無数の岩の上にも、月の光は滴って薄白い色におぼめいている。ギャーッと、一声月を掠めて、岩から海の方へ翔けて行ったのは、余りに明るい月の光に暁と間違えて眼を覚ました鴻鳥ででもあったろう。彼は静かに足を運び岩の一つへ上って行った。海から微風が吹いて来て、鬢の後れ毛を飜えし、身内の汗を拭ってくれる。
 と、彼は急に足を止めた。
 悲しげな少年の泣声が、何処か手近の岩蔭から細々と聞えて来たからである。彼は少なからず驚いて、声の来る方へ耳を傾け、暫くじっと聞き済ましたが、軈《やが》て小走りに走り出した。屏風のように突立っている平の岩をグルリと廻わると忽然と広い空地へ出た。そして其空地の中央に、十四五歳の少年が、縄で手足を厳重に縛られ、地面に転がされているのではないか。
 月光に照らされた少年の端麗優美の容貌が、先ず九郎右衛門の心を曳いた。その次に彼を驚かせたのは、少年の着ている衣裳であった。その衣裳には柬埔寨《かんぼじや》国の王室の紋章が散らしてある。
 曾て、九郎右衛門は柬埔寨へも、一二度往復したことがあって、可成り国語にも通じていた。
 で彼は少年へ話しかけた。
 その結果彼の知ったことは、その少年こそ柬埔寨国の皇太子であるということや、其柬埔寨国に恐ろしい革命が起こったということや、その結果王と王妃とが憐れにも牢獄へ投ぜられ、皇太子のカンボ・コマだけが、謀叛人の一味に捉えられ、此澎湖島の岩の間へ捨て去られたということや――要するに彼と交渉のある柬埔寨の国家の兇変を、皇太子の口から知ったのであった。
 義侠に富んだ九郎右衛門が、その皇子の話を聞いて如何に義憤の血を湧かせたか、如何に皇子に同情したか、それは書き記すにも及ぶまい。
「よろしゅうござる!」と、九郎右衛門は重々しい声で先ず云った。
「日本《ひのもと》の男子九郎右衛門が、計らず殿下にお眼にかかり、お国の大事を聞いたというも、何かのご縁でござりましょう。及ばずながらお力になり、王様、王妃様を救い出し、無事にご対面出来ますようお取計い致しましょう。手近の浜辺に某《それがし》の率る大船碇泊《ふながか》りして居りますれば、まず夫れへご遷座なされますよう」
 斯うして九郎右衛門は皇子を背負い、自分の船まで帰って来た。そして船中主立《おもだ》った者を、窃に五人だけ呼び寄せて、其夜の出来事を物語った。
 それから九郎右衛門は斯う云った。
「何より先に呂宋まで急いで船をやらずばなるまい。そこで積んで来た荷を卸し改めて柬埔寨へ渡るとしょうぞ」
「心得申した」と五人の者は、恭く一度に頭を下げた。彼等に執っては九郎右衛門は、無限の権力を持った君主なのである。
 その翌日からコマ皇子は、日本の衣裳を着せられて日本流に駒太郎と呼ばれるようになった。そうして船も其日から有るだけの帆を一杯に張って、南へ南へと下だり出した。麗かな日和がよく続いて、海上は何時も穏かである。程経て船は呂宋へ着いたが、呂宋には島井家の支店《でみせ》がある。そこで荷物を積み代えると船は海上を日本へ向けて、急いで取って返えしたのであった。併し此時、積荷と一緒に多量の煙硝や弾丸や、刀槍の類を窃《こっそ》りと、船内へ運搬された事は、支店の人さえ気が付かなかった。まして勿論その船が途中から航路を西南に執り、日本と正反対の方角へ、進んで行ったというような事は、考えて見ることさえしなかった。
 しかし御朱印船宗室丸は、コマ皇子の駒太郎や、頭領赤格子九郎右衛門や、五十余名の水夫《ふなのり》を載せて、船脚軽く堂々と柬埔寨国へ進んだのであった。
 そうして、それ以来、宗室丸は、暫く人々の耳目から其踪跡を晦ませたのであった。



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