国枝史郎「赤格子九郎右衛門」(6) (あかごうしくろうえもん)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門」(6)

     六

 それから私は何うしたか? 別に何うも致しません! 覆面した水夫達に導かれて、浮沈自由の怪船に乗り込んだのでございます。乗り込んで夫れから何うしたか? 別に何うも致しません! 階段を下って其怪船の胴の間へ這入ったのでござります。
 すると其時、船底に当たってコトコトコトコトコトコトという、不思議な物音が聞えました。夫れと一緒に乗っている船が、恐らく水の底へ沈むのでしょう、グラグラ揺れるではござりませぬか。
「船は今水の中にいるのだな」斯う思うと私は復心[#「復心」はママ]からぞっとしたのでござります。それで私は無言のまま四辺をグルグル見廻わしました。室は狭くはありましたけれど柬埔寨風に飾られてあって大変綺麗でござりました。
 と、年長の覆面の水夫が、片手を上げて振りました。何かの合図なのでござりましょう、それと同時に他の水夫共は隣室へ立ち去って了いました。後には私と年長の水夫ばかりが室に残ったのでござります。
「いざ先ず夫れへお掛け下されい」年長の水夫は斯う云い乍ら一つの椅子を進めましたので、私は黙って腰掛けました。
 すると、覆面のその水夫は、私の腰間の両刀へ、屹《きっ》と両眼を注ぎましたが、
「失礼ながら其両刀、天晴業物でござりましょうな?」と、意外な事を訊いたものです。
「双方共彦四郎貞宗の作、日本刀での名刀でござる」
「如何でござろう、その名刀を、お揮い下さることはなりますまいかな?」――「是は又異なお頼み……なれども夫れだけの仔細ござらば、お頼みに応ぜぬものでもござらぬ。……抑《そも》、相手は何者でござるな?」――「国を奪い、人民を虐げる大悪人でござります」――「ウム、そのような悪人なりや、討ち果たすに異存はござらぬが……して其大虐無道の相手は、今、何処に居られまするな?」――「船底に閉じ込めてござります」――「何、此船の底にとな? これはこれは思いも依らぬ。然らば拙者の手を籍《か》らずとも、諸君方多数の手に依って討ち果たすこと出来ましょうに……」――「いやいや彼は悪人ながら剣にかけては無双の達人。それに多人数一度にかかり、討ち取ることはなりませぬ」――「それは又何故でござるかな?」――「私共が主君と奉める、やんごとなきお方様ご夫婦に執りまして、生命にかけても知り度いと願う、或重大の秘密事を、彼一人存じて居るが為、それを武器として彼の申すには「十人だけ勇士を選べ、そして一人一人室へよこせ。そうして俺と立合わせろ。掠傷でも負わすものあらば、運命と諦めて生命を呉れる。呉れる前に秘密も明せてやろう。併し十人の勇士共を一人残らず討ち取ったなら、其方の不覚と諦らめて、此俺を船から遁がすがよい」と。でその申し入れに従いまして、是迄に九人の勇士を選んで彼の室へ送ったのでございますが、室へ這入ると殆ど同時に、只一刀に切殺されて助かった者とてはござりませぬ……」
「成程」と私は頷きました「そこで最後の十人目にこの拙者を選んだのでござるな――心得申した。承知致してござる。如何にも仰せに従って此彦四郎揮いましょうぞ?」――私は深い決心を以て引受けて了ったのでござります。
「それでは愈々《いよいよ》ご承引か?」
「その無道人を只一刀に息の根止めてご覧に入れる!」
「あいや、息の根止められましては、却って困難致しますゆえ‥…」
「左様であったの、では深手を、死なぬぐらいに付けると致そう」
 それから私は彼の後に従いて、狭い険しい階段を船底へ下りて行ったのでした。下り切った所に閂《かんぬき》を掛けた厳重な扉がございましたが、その中にこそ目指す相手が籠って居るのでござりました。
 私を此処まで導いて来た覆面をした年長の水夫が燈火を持って立ち去った後は、一点の燈火も無い真の闇で、扉も閂も見えはしません。その中で私は暫くの間、深い呼吸をして心気を沈め、やおら手探りに閂を外し、その瞬間に身を躍らせて、真直ぐに室の中へ突き入りました。果して私の背を掠めて、正しく扉口の左側から切り込んで来た太刀風が、鋭く横顔に感じましたが、既に其時は機先を制して私は室の中に居たのでした。そして私は思いました。恐らく是迄の九人の勇士は、この一刹那の機を誤って、あの鋭い一太刀の為めに空しく生命を失ったのであろうと。
 私は室の真中に呼吸を封じて立っていました。是ぞ忍術《しのび》の奥儀の一つ、生身を変じて死身にする「封息」の一手でございます。少くとも左様やって呼吸を封じて、突立っている瞬間だけは、人間を変じて木石とも為し、又、鼠とも大蛇《おろち》とも蛛蜘とも為ることが出来るのです。――封じた気息は遂には洩れる! その洩れる時が大切です。私は徐々《そろそろ》と足を運んで扉の方へ参りました。そこに相手の居ないことは余りに明らかの事実です。ハッと切込んだ一転瞬に、ヒラリと体を変化させて、居所を眩すのが常道で、その常道の隙を狙って、逆に其方へ飛び込んで行くのが、忍術の奇道なのでございます。果して戸口には居ませんでした。そこで私は次の術――即ち、木遁の一手であって身を木の形に順応させ而《そうし》てその木と同化させる所の所謂「木荒隠形《もくこういんぎょう》」の秘法。それを使ったのでございます。易い言葉で申しますと、木目と同じような姿勢を作り、樹木と同じ心持ちとなる。――要するに是なのでございます。



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