国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(02) (あかごうしくろうえもんのむすめ)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(2)

貴殿の背中に白い糸屑が!

 しかし勿論誰一人としてお菊の顔色の変わったことに不審を打とうとするものはなかった。
 尚ひとしきり赤格子の噂で酒宴の席は賑わった。その中《うち》日が暮れ夜となった。銀燭が華やかに座敷に点《とも》り肴が新しく並べられ一座はますます興に入り夜の更けるのを知らないようである。
 今の時間にして十時過ぎになるとさすがに人々は騒ぎ疲労たらしく次第に座敷は静かになった。
「私少しく遠方でござれば失礼ながらこれで中座を」
 こう云って利右衛門は腰を浮かせた。
「もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな」
「はい玉造でございますので」
「お前が帰ると云ったなら他の連中も遠慮して一時にバタバタ立ち上ろうもしれぬ。……それでは私《わし》が寂しいではないか」と卜翁は子供のように云うのであった。
 それでもとうとう利右衛門だけは中座することを許された。それに小宮山彦七も同じく玉造に家があったのでこれも一緒に帰ることになった。二人はお菊に送られて、定まらぬ足付きで玄関まで来ると、掛けてあった合羽を取ろうとした。
「いえお着せ致しましょう」
 お菊が代わって素早く取る。
「これはこれは恐縮千万」
 など、二人は云いながらも、素晴らしい別嬪の優しい手でフワリと肩へ掛けられるのだから悪い気持もしないらしい。戸外《そと》には下男の忠蔵が、身分にも似ない小粋な様子で提燈《ちょうちん》を持って立っていたが、
「戎ノ宮《えびすのみや》の藪畳まで、私めお送り申しましょう」
「それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう」
 云いながら利右衛門は手を出した。忠蔵はちょっと渋ったが、それでも提燈は手渡した。
「では、お菊様、よろしくな」
 云いすてて二人は歩き出す。
「お大事においで遊ばしませ」
 お菊はつつましく手を突いて二人の姿を見送ったが、その眼を返すと忠蔵を見た。
 と、忠蔵もお菊を見た。
 二人は意味深く笑ったものである。

 霜夜に凍った田舎路を、一つの提燈に先を照らし、彦七と利右衛門とは歩いて行く。
「お互い金は欲しいものじゃ」
 利右衛門はふと[#「ふと」に傍点]こんなことを云った。
「はてね」と彦七は笑い声を立て、
「今更らしく何を有仰《おっしゃ》る」
「立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな」
「ははアなるほど、そのことでござるかな」
 彦七もどうやら胸に落ちたらしく、
「羨しいと申そうか小腹が立つと申そうか、今年六十二の卜翁が曾孫のような十八娘をああやっ[#「ああやっ」に傍点]て側へ引き付けて、我々にまで見せ付けられる。……その又妾《めかけ》のお菊というのが、眼の覚めるほど綺麗な上に利口者の世辞上手。……」
「しかも今から一月ほど前に抱えた妾だと申すことじゃ。閨《ねや》の中まで思い遣られてなアッハハハ」と利右衛門は、卑しい笑い声を立てたものである。
 とたんに利右衛門は躓いた。
「あ痛!」と叫んで俯向いた。指の先でも打ったらしい。
 一足おくれて歩いていた小宮山彦七は驚いて、つと側へ寄って行ったが、
「あっ!」と叫んで立ち縮んだ。
「大変でござるぞ鈴木氏!」
「なに大変?」と利右衛門の方がかえって驚いて背を延ばしたが、
「はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!」
「き、貴殿の……せ、背中に……」
「拙者の背中に何がござるな?」
「し、白い、……い、糸屑が……」
「ヒエーッ」と、利右衛門はのけぞっ[#「のけぞっ」に傍点]たが、よろよろと二三歩後へ退った。
 ……と見るや彦七の背中にも一房の白糸が下っている。
「や、や、貴殿の背中にも。……やっぱり同じ白糸が!」
「うわ!」と彦七はそれを聞くと、生気地なくベタベタと地へ坐った。
「エイ!」と右手の藪陰からその時に鋭い掛声が掛かった。
「うむう」と同時に呻き声がした。クルリ体を廻したかと思うと、仰向けに利右衛門は転がった。鋭利な削竹《そぎたけ》が節元まで深く咽喉に差さっている。
「人殺し!」と、彦七はやにわに喚いて飛び上ったが、
 それより早く藪陰からまたも同じ掛声がした。……声《こえ》と一緒《しょ》に彦《ひこ》七も霜の大地へころがった。
 削竹が咽喉に立っている。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送