国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(04) (あかごうしくろうえもんのむすめ)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(4)

塩田の忠蔵身の上話

 コツコツコツコツと部屋の襖を窃《そっ》と指で打つ者がある。
「忠さんかえ、お入りよ」……お菊は云いながら襖をあけた。
 入って来たのは忠蔵である。
「姐御、首尾は? と云う所だが、首尾はいいに定《き》まっている。……さあソロソロ出かけやしょうぜ」
「あいよ」と云いながら立膝をして、煙草をパクパク吹かしている。
「忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶《ふか》のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ」
「全く人間年を取ってはからしき[#「からしき」に傍点]駄目でござんすね」
「生命《いのち》を狙う仇敵《てき》とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう」
「うへえ、姐御、惚気ですかい」
「と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっ[#「ふっ」に傍点]と怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ」
「南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう」
「一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解《と》かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ」
「しかし迂闊《うっか》り[#「迂闊《うっか》り」は底本では「迂闊《うっかり》り」]油断するとあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品《もの》も人間《ひと》も揃いやした。片付けるもの[#「もの」に傍点]は片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな」
「それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね」
「何も買入れた品物じゃなし、資本《もとで》いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ[#「ぐれ」に傍点]蛤《はま》になろうもしれず……」
「おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ」
 お菊はニヤリと嘲笑った。
「姐御に逢っちゃ適《かな》わない。私《わっち》は案外臆病者でね。……そりゃ肩書もござんすが、この肩書の塩田というのが、そもそもヤクザの証拠でね、私の国は播州赤穂、塩田事業の多い所で、私の家もお多分に洩れず、山屋といって塩造、土地でも一流の方でしたが、鷹の産んだ鳶とでも云おうか、産まれながらこの私だけ、誰にも似ない無頼漢《やくざもの》、十五の時から家を抜け出し今年で二十年三十五歳、国へも家へも寄り付かず気儘にくらして居りましたところ、今から数えて十八年前、人の噂で聞いたところ、私の一家は海賊に襲われ、その時漸く五つになった妹のお浪たった一人だけ、乳母に抱かれて逃げたばかり後は残らず殺されたとか。……驚いても悲しんでも過ぎ去ったことはどうにもならず、それから一層邪道に入り今では立派な夜働き、しかし魂は腐っても兄妹の情は切っても切れず、一人生き残った妹お浪を右腕の痣を証拠にして探しあてようとこの年月心掛けては居りやすが、いまだに在家《ありか》の知れないのは運の尽きか死んだのか、心残りでございますよ。……なアんて詰まらない身の上話に大事な時を無駄にした。さあ姐御、参りやしょう。仲間が待って居りやしょうに」
 二人はスルリと部屋を出た。
 後には卜翁の寝息ばかりがさも安らかに聞こえている。



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