国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(05) (あかごうしくろうえもんのむすめ)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(5)

誰白浪の夜働

 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。
 夜桜の候となったのである。
 ここは寂しい木津川《きつがわ》縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。
 と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。
「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」
 ――とたんに若い女の声で、
「あれッ」と云う声が聞こえてきた。
 はっ[#「はっ」に傍点]と驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、
「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇《ひし》と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しか[#「しか」に傍点]と抱き、
「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな[#「こんな」に傍点]所においでなさんす」
「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、
「はい、妾《わたし》は京橋の者、悪漢共に誘拐《かどわか》され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」
「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢《わるもの》が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」
「はい有難う存じます」
 こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、
「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」
「ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……」
 袖で顔をかくしたが、
「こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。――どうやら吃驚《びっくり》なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心《うぶ》の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……」
「おお落ちて居りましたか?」
「中味を見れば二百両」
「え、二百両? むうう、大金!」
「はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……」
「見付かりましたか、落し主は?」
「いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました」
「それでは財布はそっくり[#「そっくり」に傍点]その儘……」
「妾の懐中《ふところ》にござんすとも」
「おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障《さわ》らせておくれ」
 グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。
「あれ!」と云う間もあらばこそ、ズルズルと財布は引き出された。
「それじゃお前は泥棒だね!」
「今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!」
「泥棒! 泥棒!」と喚き立てる夜鷹。
「ええ八釜敷《やかましい》!」とサット突く。
 ドンという水の音。パッと立つ水煙り。夜鷹は木津川へ投げ込まれた。
 その時、黒い人影が川下の方から走って来たが、
「そこに居るのは姐御じゃねえか」
 近寄るままに声を掛ける。
「ああ忠さんかいどうおしだえ?」
「ひでえ目に逢いましたよ」
「眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体縮尻《しくじっ》たんだえ?」
「何ね中之島の蔵屋敷前で、老人《としより》の武士《りゃんこ》を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ」
 聞くとお菊はプッと吹き出し、
「落とした金は二百両かえ?」
「へえ、いかにも二百両で……」
「革の財布に入れたままで?」
「こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!」
「女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね」
「…………」
「何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り」

「殿様、今夜は漁《と》れましょうぜ。潮の加減でわかりまさあ」
 ギーギーと櫓を漕ぎながら漁師は元気よく云うのであった。
「おお漁れそうかな。それは有難い網の上らぬほど漁りたいものだ」
 船の中から老武士が髯を撫しながら悠然と云った。それは志摩卜翁であった。
「殿様、塩梅《あんべえ》が悪いそうだね」
「どうも体がよくないよ」
「若い女子ばかり傍《そば》へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ」
「アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷《てひ》どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網《とあみ》をやりだしたのさ」
「投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!」
「どうした?」と卜翁は膝を立てた。
「お客様だア! 土左衛門でごわす!」



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