国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(06) (あかごうしくろうえもんのむすめ)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(6)

不思議な邂逅

「なに、水死人だ? それ引き上げろ!」
 卜翁は烈しく下知をした。そうして自分も手伝って若い女の死骸を上げた。
「漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ」
「へえへえ宜敷うござります」
 漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。
 卜翁は女の鳩尾《みぞおち》の辺りへじっと片手を当てて見たが、
「うむ、有難い、体温《ぬくみ》がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々《おやじおやじ》もっと漕げ!」
「へえへえ宜敷うござります」
 船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛《はし》って行く。

 その翌日のことであった。
 落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭《ちん》の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほん[#「とほん」に傍点]としたような顔をして当てもなく四辺《あたり》を眺めている。
「姐御、変なことになりましたぜ」
 忠蔵は窃《そ》っと囁いた。
「昨夜《ゆうべ》の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」
「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐《たま》ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露《ばれ》ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」
「姐御、逃げやしょう。逃げるが勝だ」
「そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ」
「と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ」
「とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない」
「へえそれじゃこの私《あっし》に様子を見ろと仰有《おっしゃ》るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね」
 お菊は返辞をしなかった。
 陽が次第に暮れて来る。

 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。三日見ぬ間に散るという桜の花は名残なく散り、昔のことなど思い出される、山吹の花の季節となった。
 この頃水死から助けられた辻君のお袖は元気を恢復し、卜翁の好意ある進めに従い、穢わしい商売から足を洗い、一つは卜翁への恩返し、小間使いとして働くことになり、病気と云って誰にも逢わず離れ座敷に引き籠もっている妾《めかけ》のお菊の代理として今では卜翁の身の廻りまで手伝う身分となっていた。
 日向《ひあた》りのよい離れ座敷の丸窓の下で出逢ったのは、そのお袖と忠蔵とである。
「おや忠さん、いい天気だね」
「そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう」
 云いすてて忠蔵は行き過ぎようとした。
「ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか」
「なアに別に逃げはしないが、それ諺《ことわざ》にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね」
「でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった[#「たった」に傍点]一つだけ訊きたいことがあるのだよ」
「そりゃ一体どんなことだね?」
 しかたなく忠蔵はこう云った。
「他でもないが二十日ほど前、それも夜の夜中にね、大阪難波桜川辺りを通ったことはなかったかね?」
 ――そりゃこそお出でなすったは。こう忠蔵は思ったもののそんな気振はおくび[#「おくび」に傍点]にも出さず。
「いいや、ないね。通ったことはない」
「それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね」
「夜目遠目傘の中他人の空似ということもある」
「それじゃやっぱり人違いかねえ」
 お袖はじっと思案したが、
「なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」
「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」
 わざ[#「わざ」に傍点]ととぼ[#「とぼ」に傍点]けて忠蔵は訊く。
「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」
「おやおや広い世間にとぼ[#「とぼ」に傍点]けた野郎があるものだね」
 ポンと自分の額を叩き、
「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」
「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。
「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」



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