国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(07) (あかごうしくろうえもんのむすめ)

国枝史郎「赤格子九郎右衛門の娘」(7)

南無三宝! 絶体絶命!

「妾の前身でござんすか」
 お袖はにわかに眼をしばたたき、
「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」
「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」
「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」
「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」
 忠蔵は急に真顔になった。
「はい、山屋と云いましたよ」
「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。
「それじゃもしや本名は……」
「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」
「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」
「どうして詳くそんな事まで……」
 不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちり[#「むっちり」に傍点]と白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。
「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚《よろめ》くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。
 仲間の掟は山より重い。頭領《かしら》の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。
「南無三宝! 絶体絶命!」
 腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首《あいくち》を抜いた途端、
「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。
「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタとお袖は走って行った。
 胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、
「おい忠蔵!」とお菊の声。
 無言で忠蔵は眼を上げた。
「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。
 しかし忠蔵は黙っている。
「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭《はっきり》とお云い! 妾に従《つ》くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」
「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。
「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」
「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」
「え! 罪もねえ妹を※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「妾も卜翁をばらす[#「ばらす」に傍点]からさ」
「その卜翁は姐御の敵。ばらす[#「ばらす」に傍点]というのも解《わか》っているが、妹には罪も咎もねえ」
「それでは厭だと云うのかい?」
 お菊はキリリと眉を上げた。
「…………」
 忠蔵は歯を噛むばかりである。
「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。
「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。
「うん」と忠蔵は頷いたが。
「姐御々々やっつけ[#「やっつけ」に傍点]やしょう!」
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 丸窓の奥からお菊が云った。
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 忠蔵がそれをなぞって[#「なぞって」に傍点]行く。
「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」



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