国枝史郎「大捕物仙人壺」(02) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(2)



 同じ一座の道化役、巾着《きんちゃく》頭のトン公《こう》は、夜中にフイと眼を覚ました。
 ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
 首を擡《もた》げて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲《まわり》を見ると女太夫共が、昼の劇《はげ》しい労働に疲労《つかれ》、姿態《なりふり》構わぬ有様で、大鼾《いびき》で睡っていた。
 それを跨《また》ぐとトン公は、楽屋梯子《ばしご》を下へ下りた。
 暗い舞台の隅の方から、黄色い灯《ひ》の光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
 誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、颯《さっ》と外へ飛び出して来た。
「おお可《よ》し可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おお可《い》い子だ、おお可い子だ……」
 口笛が止むとあやなす[#「あやなす」に傍点]声が、こう密々《ひそひそ》と聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然《しん》と静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何か停《と》まっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪い獣《けもの》であった。
 月光が消え人影が消え、誰か戸外《そと》へ出て行った。

「思召《おぼしめ》しは有難う存じますが……妾《わたし》のような小屋者が……貴郎《あなた》のような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女《あなた》さえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
 紫錦《しきん》と伊太郎《いたろう》は歩いて行った。
 帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨《かりん》畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]は聞えなかった。
 穂麦《ほむぎ》の芳《かんば》しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映《は》えなかった。
「美しい晩、私は幸福《しあわせ》だ」
「妾も楽しうござんすわ」
 畦道《あぜみち》は随分狭かった。肩と肩とを食《く》っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
 いつともなしに寄り添っていた。
 やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
 それで二人は舟へ乗った。
 湖上には微風が渡っていた。櫂《かい》で砕《くだ》かれた波の穂が、鉛色に閃《ひら》めいた。水禽《みずどり》が眼ざめて騒ぎ出した。
 二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のお家《うち》へ」
 そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
 木戸を開けると裏庭で、柘榴《ざくろ》の花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可《いけ》ませんわ、そんなこと」
 二人は優しく争った。
 やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂《ろかい》を繰《あやつ》って紫錦は湖水を引き返した。

 どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
 楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人臥《ふせ》っていた。
 ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
 と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可《いけ》ない、泥棒かな」
 すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
 長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思った隙《ひま》もなくポックリと障子へ穴があいた。
 颯《さっ》と部屋の中へ飛び込んで来た。
「鼬《いたち》だ」
 と伊太郎は刎起《はねお》きた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
 ぼんやり点《とも》っている行燈《あんどん》の光で、背を波のように蜒《うね》らせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
 母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、この離《はなれ》へやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
 母のお琴《こと》はそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
 それからバッタリ仆《たお》れてしまった。
 お琴は気絶したのである。
 鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なお幽《かすか》に聞こえていた。



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