国枝史郎「大捕物仙人壺」(06) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(6)



 紫錦《しきん》は伊丹屋へ来て以来、その名をお錦《きん》と呼び変えられていた。そのお錦の最近の希望《のぞみ》は、女中も連れず、ただ一人で浅草辺りを歩いて見たいことで、もしそれが旨く行こうものならどんなにのうのう[#「のうのう」に傍点]するだろう――こう彼女は思うのであった。
 で或日外出した時、うまうま途中で女中をまいた[#「まいた」に傍点]。喜んだお錦はその足で浅草の方へ歩いて行った。浅草奥山の賑《にぎわい》は今も昔も変りがなく、見世物小屋からは景気のよい囃子の音が聞こえてきた。恐ろしいような人出であった。
 観音様へお賽銭を上げ、それからお堂の裏手の方へ宛もなく彼女は歩いて行った。
「オイ紫錦《しきん》さん、紫錦さんじゃないか!」
 誰やら背後《うしろ》から呼ぶ者があるので彼女は驚いて振り返った。
「おや、お前、トン公《こう》じゃないか?」
「ナーンだ、やっぱり紫錦さんか」
 昔のお仲間、道化のトン公、三尺足らずの福助頭――それが笑いながら立っていた。
「たしかにそうだとは思ったが、何しろ様子が変っているだろう。穏《おとな》し作りのお嬢さん、迂闊《うっか》り呼び掛けて人異《ちが》いだったら、こいつ面目《めんぼく》がねえからな。それでここまでつけて[#「つけて」に傍点]来たのさ」
「まあそうかえ、どこで目付けたの?」
「うん、玉乗の楽屋でね。俺《おい》らあそこに傭《やと》われているんだ」
 二人は歩きながら話すことにした。
「……で、そういった塩梅《あんばい》でね、諏訪以来一座は解散さ。チリチリバラバラになったのさ。……随分お前を探したよ。親方にとっては金箱だし源公《げんこう》から見れば恋女だ。そのお前がどこへ行ったものか、かいくれ行衛《ゆくえ》が知れねえんだからな。そりゃア随分探したものさ。ああ今だって探しているよ。執念深い奴らだからな」
「そりゃあもう探すのが当然さ」
 お錦は何となく憂鬱に云った。「それで、随分怒っているだろうね」
「ああ随分怒っているよ。恩知らずの不幸者だってね。……そう親方が云うんだよ」
「実の親でもない癖に」お錦はにわかに反抗的に「不幸者が聞いて呆れるよ」
「そうともそうとも本当にそうだ」トン公はすぐに同情した。「怨こそあれ恩はねえ道理だ。いずれお前を誘拐《かどわか》したものさ」
「そうよ、妾の小さい時にね」
「その上ふんだん[#「ふんだん」に傍点]に稼がせてよ。あぶく銭を儲けたんだからな」
「恩もなけりゃ義理もない訳さ」
「ところでどうだな、今の生活《くらし》は?」
「さあね」とお錦は気がなさそうに「大してうらやましい生活でもないよ」
「そうかなア、不思議だなア」トン公は仔細らしく考え込んで「でもお前《めえ》伊丹屋といえば江戸で指折の酒屋じゃねえか。そこの養女ときたひにゃア云う目が出るというものだ」
「そりゃあそうだよ。云う目は出るさ。でもね、本当の幸福ってものは、そんなものじゃないと思うよ」
「それにお前《めえ》伊太郎さんは、お前の好きな人じゃアねえか」
「嫌いでなかったという迄の人さ。それにどうも妾とはね、気心がピッタリと合わないのだよ」
「ふうん、そうかなア、変なものだなア。……だが、オイ、そりゃア我儘ってもんだぜ」
 しかしお錦は黙っていた。
「だがマアお前《めえ》と逢うことが出来て、俺《おい》らほんとに嬉しいよ」ややあってこうトン公が云った。
「お前はそうでもあるめえがな」
「いいえ妾だって嬉しいよ」本心からお錦は云うのであった。「何といったって昔馴染だからね」
「そう云われると嘘にしても俺らは素敵にいい気持だよ」
 なるたけ人のいない方へと二人は歩いて行くのであった。
「それじゃお前さんはここ当分玉乗の一座にいるんだね」
「他に行き場もないからな」
「それじゃいつでも逢えるのね」
「だが余《あんま》り逢わねえがいい、今じゃ身分が異《ちが》うんだからな」
「莫迦をお云いな。逢いに行くわよ」
「それに親方も源公もいずれ江戸の地にはいるんだからな、あんまり暢気《のんき》に出歩いていて目付けられると五月蠅《うるさい》ぜ。何しろ源公ときたひにゃア、未だにお前に夢中なんだからな」
「源公なんかにゃ驚かないよ」お錦はむしろ冷笑した。「それこそ一睨みで縮ませて見せるよ」
「そりゃあマアそうに異《ちげ》えねえが……」
 トン公はやはり心配そうであった。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送