国枝史郎「大捕物仙人壺」(08) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(8)



「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、お前《めえ》どこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無《かまなし》の文《ぶん》」の一座にだよ」
 これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり[#「さり」に傍点]気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦《しきん》さんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛《ゆくえ》が知れないって云うじゃないか」
 するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
 こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚《びっくり》させた。
「おいトン公」と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所《ありか》を聞いて「爺つあん」お前はどうする意《つもり》だな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心が解《わか》らねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福《しあわせ》なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷《ひど》く破壊《こわれ》やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸《しあわせ》のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
 すると「爺つあん」は声を窃《ひそ》め、四辺《あたり》をしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
 葉村《はむら》一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
 驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。



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