国枝史郎「北斎と幽霊」(02) (ほくさいとゆうれい)

国枝史郎「北斎と幽霊」(02)

        二

 ちょうど同じ日のことであった。
 葛飾北斎は江戸の町を柱暦《はしらごよみ》を売り歩いていた。
 北斎といえば一世の画家、その雄勁の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺《あた》りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃《はや》されているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨《みじめ》なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府用達《ようたし》鏡師《かがみし》の子。中島または木村を姓とし初め時太郎後《のち》鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋《たず》ね、さらに雪舟、土佐に遡《さかのぼ》り、明人《みんじん》の画法を極むるに至れり」
 云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場《なんば》が来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃《こめびつ》の方にも離れたのである。
 彼はある時には役者絵を描きまたある時には笑絵《わらいえ》をさえ描いた。頼まれては手拭いの模様さらに引き札の図案さえもした。それでも彼は食えなかった。顔を隠して江戸市中を七色唐辛子を売り歩いたものだ。
「辛い辛い七色唐辛子!」
 こう呼ばわって売り歩いたのである。彼の眼からは涙がこぼれた。
「絵を断念して葛飾《かつしか》へ帰り土を掘って世を渡ろうかしら」――とうとうこんなことを思うようになった。
 やがて師走《しわす》が音信《おとず》れて来た。
 暦が家々へ配られる頃になった。問屋《といや》へ頼んで安くおろして貰い、彼はそれを肩に担ぎ、
「暦々、初刷り暦!」
 こう呼んで売り歩いた。
「暦を売って儲けた金でともかくも葛飾へ行って見よう。名主の鹿野紋兵衛様は日頃から俺《わし》を可愛がってくださる。あのお方におすがりして田地を貸して頂こう。俺には小作が相応だ」
 ひどく心細い心を抱いて、今日も深川の住居から神田の方までやって来たが、ふと気が付いて四辺《あたり》を見ると、鍛冶橋狩野家の門前である。
「南無三宝、これはたまらぬ」
 あわてて彼は逃げかけた。しかし一方恋しさもあって逃げ切ってしまうことも出来なかった。向かいの家の軒下へ人目立たぬように身をひそめ、冠った手拭いの結びを締め、ビューッと吹き来る師走の風に煽られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっ[#「じっ」に傍点]と門内を隙《す》かして見たが、松の前栽に隠されて玄関さえも見えなかった。
「別にご来客もないかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも御殿へお上がりか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば俺もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご薫陶を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、宇都宮の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た錆《さび》でこのありさま。思えば恥ずかしいことではある」
 述懐めいた心持ちで立ち去り難く佇《たたず》んでいた。
 寛政初めのことであったが、日光廟修繕のため幕府の命を承わり狩野融川は北斎を連れて日光さして発足した。途中泊まったのは蔦屋《つたや》という狩野家の従来の定宿であったが、余儀ない亭主の依頼によってほん[#「ほん」に傍点]の席画の心持ちで融川は布へ筆を揮《ふる》った。童子《どうじ》採柿《さいし》の図柄である。雄渾の筆法閑素の構図。意外に上出来なところから融川は得意で北斎にいった。
「中島、お前どう思うな?」
「はい」と云ったが北斎はちと腑に落ちぬ顔色であった。「竿が長過ぎはしますまいか」
「何?」と融川は驚いて訊く。
「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられます」憚《はばか》らず所信を述べたものである。
 矜持《きんじ》そのもののような融川が弟子に鼻柱を挫かれて嚇怒《かくど》しない筈がない。
 彼は焦《いら》ってこう怒鳴った。
「爪立ちするは大人の智恵じゃわい! 何んの童子が爪立とうぞ! 痴者《たわけもの》めが! 愚か者めが!」






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