国枝史郎「北斎と幽霊」(04) (ほくさいとゆうれい)

国枝史郎「北斎と幽霊」(04)

        四

 こういうことがあってからほとんど半歳の日が経った。依然として北斎は貧乏であった。
 ある日大店の番頭らしい立派な人物が訪ねて来た。
 主人の子供の節句に飾る、幟《のぼ》り絵を頼みに来たのである。
「他に立派な絵師もあろうにこんな俺《わし》のような無能者《やくざもの》に何でお頼みなさるのじゃな?」
 例の無愛相な物云い方で北斎は不思議そうにまず訊ねた。
「はい、そのことでございますが、私所《ところ》の主人と申すは、商人《あきゅうど》に似合わぬ風流人で、日頃から書画を好みますところから、文晁先生にもご贔屓《ひいき》になり、その方面のお話なども様々承わっておりましたそうで、今回節句の五月幟《さつきのぼ》りにつき先生にご意見を承わりましたところ、当今浮世絵の名人と云えば北斎先生であろうとのお言葉。主人大変喜ばれまして早速私にまかり越して是非ともご依頼致せよとのこと、さてこそ本日取急ぎ参りました次第でござります」
「それでは文晁先生が俺《わし》を推薦くだされたので?」
「はいさようにござります」
「むう」
 とにわかに北斎は腕を組んで唸り出した。
 当時における谷文晁は、田安中納言家のお抱え絵師で、その生活は小大名を凌ぎ、まことに素晴らしいものであった。その屋敷を写山楼《しゃざんろう》と名付け、そこへ集まる人達はいわゆる一流の縉紳《しんしん》ばかりで、浮世絵師などはお百度を踏んでも対面することは困難《むずか》しかった。――その文晁が意外も意外自分を褒めたというのだからいかに固陋《ころう》の北斎といえども感激せざるを得なかった。
「よろしゅうござる」
 と北斎は、喜色を現わして云ったものである。
「思うさま腕を揮いましょう。承知しました、きっと描きましょう」
「これはこれは早速のご承引《しょういん》、主人どれほどにか喜びましょう」
 こういって使者《つかい》は辞し去った。
 北斎はその日から客を辞し家に籠もって外出せず、画材の工夫に神《しん》を凝らした。――あまりに固くなり過ぎたからか、いつもは湧き出る空想が今度に限って湧いて来ない。
 思いあぐんである日のこと、日頃信心する柳島《やなぎしま》の妙見堂へ参詣した。その帰路《かえりみち》のことであったがにわかに夕立ちに襲われた。雷嫌いの北斎は青くなって狼狽し、田圃道を一散に飛んだ。
 その時眼前の榎《えのき》の木へ火柱がヌッと立ったかと思うと四方一面深紅となった。耳を聾《ろう》する落雷の音! 彼はうん[#「うん」に傍点]と気絶したがその瞬間に一個の神将、頭《かしら》は高く雲に聳え足はしっかりと土を踏み数十丈の高さに現われたが――荘厳そのもののような姿であった。
 近所の農夫に助けられ、駕籠に身を乗せて家へ帰るや、彼は即座に絹に向かった。筆を呵《か》して描き上げたのは燃え立つばかりの鍾馗《しょうき》である。前人未発の赤鍾馗。紅《べに》一色の鍾馗であった。
 これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。
 彼は有名にはなったけれど決して金持ちにはなれなかった。貨殖《かしょく》の道に疎《うと》かったからで。
 彼は度々住家《いえ》を変えた。彼の移転性は名高いもので一生の間に江戸市中だけで、八十回以上百回近くも転宅《ひっこし》をしたということである。越して行く家越して行く家いずれも穢ないので有名であった。ひとつは物臭い性質から、ひとつはもちろん家賃の点から、貧家を選まざるを得なかったのである。
 それは根岸御行《おぎょう》の松に住んでいた頃の物語であるが、ある日立派な侍が沢山の進物を供に持たせ北斎の陋屋《ろうおく》を訪ずれた。
「主人阿部豊後守儀、先生のご高名を承わり、入念の直筆頂戴いたしたく、旨《むね》を奉じてそれがし事本日参上致しましてござる。この儀ご承引くだされましょうや?」
 これが使者の口上であった。
 阿部豊後守の名を聞くと、北斎の顔色はにわかに変わった。物も云わず腕を組み冷然と侍を見詰めたものである。
 ややあって北斎はこう云った。
「どのような絵をご所望かな?」
「その点は先生のお心次第にお任せせよとのご諚にござります」
「さようか」
 と北斎はそれを聞くと不意に凄く笑ったが、
「心得ました。描きましょう」
「おおそれではご承引か」
「いかにも入念に描きましょう。阿部様といえば譜代の名門。かつはお上のご老中。さようなお方にご依頼受けるは絵師冥利にござります。あっ[#「あっ」に傍点]とばかりに驚かれるような珍しいものを描きましょう。フフフフ承知でござるよ」






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