国枝史郎「二人町奴」(05) (ふたりまちやっこ)

国枝史郎「二人町奴」(05)



 藤兵衛は谷中に住んでいた。そこで谷中の藤兵衛とも云う。彼は金魚組の頭領であった。そこで緋鯉の藤兵衛とも云う。躯幹長大色白く、凜々たる雄風しかも美男、水色縮緬の緋鯉の刺繍《ぬいとり》、寛活伊達の衣裳を着、髪は撥髪《ばちびん》、金魚額、蝋鞘の長物落し差し洵《まこと》に立派な風采であった。
 そうして彼は名門でもあった。その実姉に至っては、春日局《かすがのつぼね》に引き立てられ、四代将軍綱吉の乳母《めのと》、それになった矢島局であり、そういう縁故があるところから、町奉行以下の役人達も二目も三目も置いていた。但しそのためにそれを利用し、藤兵衛決して威張りはしない。覇気の中にも謙遜を保ち、大胆の中にも細心であった。
 だが親分藩隨院長兵衛、水野十郎左衛門のために騙り討たれた。そればかりか唐犬権兵衛、夢の市郎兵衛、出尻《でっちり》清兵衛、小仏小兵衛、長兵衛部下の錚々たる子分が、復讐の一念懲りかたまり、水野屋敷へ切り込んだが、不幸にも失敗をした揚句、一同遠島に処せられても、徳川直参という所から、水野一派にはお咎めもなく、依然暴威を揮っているのが、勘にさわってならなかった。
「どうともして、水野に腹切らせ、白柄組を瓦解させ、一つには親分の恨みを晴らし、二つには兄弟分の怒りを宥め、三つには市民の不安を除き、旗本奴と町奴との長い争いを止めたいものだ」
 これは日頃の念願であった。
 ところがとうとうその念願が遂げられる機会がやって来た。
「旗本に楯つく町奴というもの、是非とも一度見たいものだ」
 将軍綱吉が云い出したのである。
「それでは」と云ったのは松平伊豆守、かの有名な智慧伊豆であった。
「矢島局様実弟にあたる、谷中住居の藤兵衛という者、今江戸一の町奴とのこと。大奥に召すことに致しましょう」
「おおそうか、それはよかろう」
 そこで藤兵衛召されることになった。
 雀躍《こおどり》したのは藤兵衛である。
「ああ有難え、日頃の念願、それではいよいよ遂げられるか、将軍様を眼の前に据え、思うまんまを振舞ってやろう」
 さてその藤兵衛だがその日の扮装《いでたち》、黒の紋付に麻上下、おとなしやかに作ったが、懐中《ふところ》に呑んだは九寸五分、それとなく妻子に別れを告げ、柳営大奥へ伺候した。
 町人と云っても矢島局の実弟、立派な士分の扱いをもって丁寧に席を与えられたが、見れば正面には御簾があり、そこに将軍家が居るらしい。諸臣タラタラと居流れている。言上役は松平伊豆、面目身にあまる光栄である。
 と、伊豆守声をかけた。
「まず聞きたいは町奴の意気、即座に簡単に答えるがよい」
「はっ」と云ったが緋鯉の藤兵衛、
「強きを挫き弱きを助ける! 町奴の意気にございます」
 その言い方や涼しいものである。
「が、噂による時は、放蕩無頼の町奴あって、強きを挫かず弱きを虐げ、市民を苦しめるということだの」
「末流の者でございます」
 藤兵衛少しも驚かない。
「言葉をかえて申しますれば、真の町奴にあらざる者が、ただ町奴の面を冠り悪行をするものと存ぜられます」
 返答いよいよ涼しいものである。
「町奴風という異風あって、風俗を乱すということであるが、この儀はなんと返答するな?」
 伊豆守グット突っ込んだ。
「これは我々町奴が、自制のためにございます。と申すは他でもなく、異風して悪事をしますれば、直ちに人の目に付きます。自然異風を致しますれば、しようと致しましても悪事など、差し控えるようになりましょうか」
「なるほど」と伊豆守頷いたが、
「その方達町奴の家業はな?」
「お大名様や、金持衆へ、奉公人を入れますのが、おおよその商売にございます」
「では大名や金持共の、よくない頼み事も引き受けて、旗本ないし、貧民どもに、刃向かうようになろうではないか」
「とんでもない儀にございます」
 藤兵衛ピンと胸を反らせた。
「ご贔屓さまはご贔屓さま、なにかとご用には立ちますが、儀に外れたお頼みは、引き受けることではござりませぬ」
 立派に言い切ったものである。
「さようか」と伊豆守打ち案じたが、
「では町奴と申すもの、世上の花! 仁侠児だの」
「御意の通りにございます」
「で近世名に高い、町奴といえば何者かの?」
 声に応じて緋鯉の藤兵衛、ここぞとばかり大音に言った。
「近世最大の町奴、藩隨院長兵衛にございます」
「ふふん、さようか、藩隨院長兵衛?」
 伊豆守、首を傾げた。
「その藩隨院長兵衛[#「藩隨院長兵衛」は底本では「藩隨長兵衛」]というもの、町人の身分でありながら旗本水野十郎左衛門に、無礼の振舞い致した由にて、水野十郎左衛門無礼討にしたはず、さような人間が偉いのか」
「申し上げます」と緋鯉の藤兵衛、この時ズイと膝を進めた。
 それから云い出したものである。
「藩隨院長兵衛事一代の侠骨、町奴の頭領にございました。江戸に住居する数百数千、ありとあらゆる町奴、みな長兵衛を頭と頼み、命を奉ずる手足の如く、違《たが》う者とてはございませんでした。さてところでその長兵衛、どのような人物かと申しますに、素性[#「素性」は底本では「素情」]は武士、武術の達人、心は豪放濶達ながら、一面温厚篤実の長者、しかも侠気は満腹に允ち生死はつとに天に任せ悠々自適の所もあり、子分を愛する人情は、母の如くに優しくもあれば、父の如くに厳しくもあり、洵に緩急よろしきを得、財を惜しまずよく散じ、極めて清廉でございました。然るに」と言うと緋鯉の藤兵衛、またも一膝進めたが、
「一方水野十郎左衛門、天下のお旗本でありながら、大小神祇組、俗に申せば、白柄組なる組を作られ、事々に我々町奴を、目の敵にして横車を押され、町中においても、芝居小屋においても、故なきに喧嘩口論をされ、難儀致しましてござります。自然私共におきましても、自衛の道を講ぜねばならず、それがせり合っていつも闘争、案じましたのが長兵衛で、なんとか和解致したいものと、心を苦しめて居りました折柄、水野様より参れとの仰せ、これ必ず長兵衛をなきものにしよう魂胆と、子分一同諫止しましたところ、この長兵衛一身を捨て、それで和解が成り立つなら、これに上越す喜びはないと、進んで参上致しました結果が、案の定とでも申しましょうか。水野十郎左衛門様をはじめとし、白柄組の十数人、一人の長兵衛を切り刻み、その上死骸を荒菰に包み、むご[#「むご」に傍点]たらしくも川に流し、ご自身方は今に繁昌、なんのお咎もなきご様子、殿!」と云うと今度は藤兵衛スルスルスルスルと下ったが、額を畳へ押し付けてしまった。






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