国枝史郎「日置流系図」(02) (へきりゅうけいず)

国枝史郎「日置流系図」(02)

    本所の七不思議

 主馬はちょっと頷《うなず》いてそれから小声で笑ったが、
「忠蔵、安心するがよいわ。それがし今夜朋輩と参って曲者の正体見現わしてくりょうに」
「どうぞお願い致します」忠蔵は喜んで頭を下げた。
「弓の方は期日までに頼んだぞ」
「それはもう承知でございます」
「化物《ばけもの》沙汰に心を奪われ商売の方を疎《おろそ》かにしては商人《あきゅうど》冥利に尽きるというものだ――それでは今夜参ると致そう」
「よろしくお願い致します」
 主馬はそのまま立ち去って行ったがはたして夜になると、朋輩二人を連れ、弓師左衛門の家へやって来た。
 左衛門夫婦も挨拶に出て雑談に時を費したがいつもの時刻に近付くと怱々《そうそう》夫婦は引き退り後には主馬と朋輩の武士と忠蔵達が五、六人店を通して土間の見える職人部屋に残っていた。
 夜はしんしんと更けて来た。何となく物凄く思われるかして主馬を初め集まっている者は、次第に言葉数が少くなった。とその時表戸をトントントントンと叩く音がする。ハッと皆は眼を見合わせむっ[#「むっ」に傍点]と一時に呼吸《いき》を呑んだ。
 それでもさすがは武士だけに主馬は躊躇《ちゅうちょ》もせず立ち上がり、がちり[#「がちり」に傍点]と閂《かんぬき》を取り外した。まず細い手があらわれる。それから半身が浮き出して来る。泳ぐような歩き方ではいって来るとその老武士は云うのであった。
「弓弦《ゆづる》を一筋……」と消えるような声で、
「ヘーイ」
 と忠蔵は顫えながら云った。
「小中黒の征矢三筋……」
「ヘーイ」
 と忠蔵はまた応じた。
 くるり[#「くるり」に傍点]と老武士は方向《むき》を変えると吸われるように潜戸《くぐり》の隙から戸外《そと》の夜の闇にまぎれ込んだ。
「方々」と主馬は声をかけた。どうやらその声には生気がない。それでも自身真っ先に立って同じ潜戸から戸外へ出た。首うな[#「うな」に傍点]垂れた老武士は星月夜の道をスースーと三間ばかり彼方《かなた》を歩いている。主馬と朋輩と三人の武士は穿いている雪駄《せった》の音さえ忍ばせ着かず離れず慕い寄った。
 ものの半町も行った頃、その老武士は右へ曲がった。で三人も右へ曲がった。右へ曲がってまた半町老武士はスースーと歩いたが、そこでピタリと足を止めた。と門の開く音がして左側の家並の一所からふと人声が聞こえたかと思うと老武士の姿は見えなくなった。
「…………」
 三人は黙って顔見合わせた。それから静かに足を運び老武士の姿の消えた辺まで用心しながら近付いた。
 道場構えの一宇の屋敷がそこに広々と立っている。森然《しん》と四辺《あたり》は物寂しくもちろん燈火《ともしび》の影さえもない。三人はしばらく彳《たたず》んだまま余りの不思議さに言葉も出ない。彼ら三人は三人ながらこの辺の地理には慣れている。そしてほとんど毎日のようにこの往来も通っているのである。それにもかかわらずこんな所にこんな立派な道場屋敷の建っているということを一度もこれまで見たことがない。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに……」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が頷《うなず》きながら、「しかも拙者は今日昼頃たしかにこの前を通った筈じゃ。そしてその時はその柏屋がちゃんと店を開いていたのじゃ。いかに大江戸は素早いと云ってもものの一日と経たないうちに格子造りの染め物店が黒門厳《いか》めしい武家屋敷となるとはちとどうも受け取れぬ話じゃわい」
「さては狐狸にでもつままれたかの」――もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が化物《ばけもの》には縁の近い土地での。それ本所の七不思議と云って狸囃しにおいてけ[#「おいてけ」に傍点]堀片葉の芦《あし》に天井の毛脛、ええとそれから足洗い屋敷か……どうもここにあるこの屋敷もそのうちの一つではあるまいかの?」
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
 と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつ[#「そいつ」に傍点]を考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰った方が泰平無事ではござらぬかの」――紋太郎は小声で誘って見た。
「君子危《あやう》きに近寄らずじゃ」
「とは云えこのまま帰っては弓師左衛門や忠蔵へ対してちと面目がござらぬではないか」主馬は煮《に》え切らずこんな事を云った。それから門へ近寄って何気なくトンと押して見た。すると門はゆらゆらと揺れギーという寂しい音を立てて内側へ自然と開いたのであった。





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