国枝史郎「銀三十枚」(02) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(02)



 イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹《そうじゅ》、橄欖《かんらん》、無花果《いちじく》の木々を、銀鼠色に燻らせていた。
 肉柱《にくけい》の香、沈丁《ちんちょう》の香、空気は匂いに充たされていた。
 十三人は歩いて行った。
 小鳥が塒《ねぐら》で騒ぎ出した。その跫音《あしおと》に驚いたのであろう。
 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流《ながれ》、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。
 月光は黎明を想わせた。
 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
 彼にはイエスが疑わしく見えた。
 イエスに疑念を挟《さしはさ》んだのは、かなり以前《まえ》からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「瞽《めし》いた者は見ることが出来、跛《あしな》えた者は歩くことが出来、癩病《やめ》る者は潔まることが出来、聾《し》いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活《よみが》えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺《わし》に来たる者は幸福《さいわい》である」と。
 その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
 浅薄《あさはか》な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。
「神とは一体何だろう?」
 ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教《ユダヤきょう》ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」



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