国枝史郎「銀三十枚」(04) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(04)



 ユダは後を尾行《つけ》て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
 彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾《やまし》くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴《あいつ》はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者《キリスト》なものか! 預言者《よげんしゃ》なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
 彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
 梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
 やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
 不安と疲労《つかれ》とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々《こんこん》として眠っていた。
 イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可《いけ》ない。お祈りをしよう」
 ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
 しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑《まど》いに[#「惑《まど》いに」は底本では「惑《まどい》いに」]入らぬよう祈るがいい」
 イエスは如何《いか》にも寂しそうに云った。
 と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
 麓の方を指さした。
 山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
 打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
 それからその方へ小走って行った。
 ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 そこで一隊は歩き出した。傍路《わきみち》からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
 ユダは走りながらワクワクした。
 マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
 使徒達はイエスを囲繞《とりま》いた。
 イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついて[#「おちついて」に傍点]いた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
 その時無花果《いちじく》の茂みを分け、つと[#「つと」に傍点]ユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
 そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
 イエスの顔はひん[#「ひん」に傍点]曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
 が、その次の瞬間には、以前《まえ》の態度に返っていた。
 兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊《たず》ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
 マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
 またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見《みつけだ》した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
 こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪《ひざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。



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