国枝史郎「銀三十枚」(05) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(05)



 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望《のぞ》んでいた人の様に、従容と縛に就《つ》こうとは? 一体彼奴《あいつ》は何者だろう?」
 ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
 楊《やなぎ》の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
 どうにも不安でならなかった。

 イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
 祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子大権《たいけん》の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
 カヤパの司どる猶太教《ユダヤきょう》からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将《まさ》に死に当たった。
 人を死罪に行なうには、羅馬《ローマ》政府の方伯《ほうはく》たるピラトに聞かなければならなかった。
 サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
 やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて[#「しょびいて」に傍点]行った。
 それは金曜日にあたっていた。おりから逾越《すぎこし》の祝日《いわいび》で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いた。
 ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
 イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
 彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
 これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
 イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
 玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
 しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外《そと》へ引き出した。棘《いばら》の冕《かんむり》を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
 エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
 草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
 イエスは十字架へ附けられた。
 彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
 彼の生命《いのち》が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。



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