国枝史郎「銀三十枚」(06) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(06)



 この頃ユダは橄欖山《かんらんざん》を、狂人《きちがい》のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容《しょうよう》として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴《あいつ》は預言者か?」
 ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
 ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼《ちいさい》時から、愛誦したという歌であった。
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至誠《まこと》をもて彼道を示さん
彼は衰《おとろ》えず落胆《きおち》せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀《かなしみ》の人にして悩みを知れり
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「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何《いか》にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまる[#「あてはまる」に傍点]からな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
 ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
 彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
 ユダは周章《あわて》て懐中《ふところ》を探った。銀三十枚が入っていた。

 マグダラのマリアは唄っていた。
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キリスト様が死んだとさ
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「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾《わたし》は最初《はじめ》あの人が好きで、香油《においあぶら》で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫《いろ》にして、進めてあの人を殺させたのさ」
「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
 ユダはマリアを抱き縮《すく》めた。
「まあお待ちよ、どれお見せ」
 革財布をひったくり[#「ひったくり」に傍点]、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞《だま》されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」

 ここ迄話して来た佐伯《さえき》氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。
「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説《はなし》の銀貨はね」
 ドサリと投げるように卓《テーブル》の上へ置いた。
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太《ユダヤ》の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理《もっとも》らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵《かな》わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
 私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣《もの》で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日《きのう》鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
 私は吃驚《びっくり》して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解《わか》りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
 いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
 こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定《き》まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
 とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。



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