国枝史郎「銀三十枚」(08) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(08)



 私のタクシは駛って行った。
 公園は冬霧に埋もれていた。
 公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
 名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
 そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
 妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
 二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
 財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
 彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
 その眼で愉快そうに笑った。
 私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
 紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を囲繞《とりまい》ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督《キリスト》の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。
 もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
 私は直《す》ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく[#「ひどく」に傍点]飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂《いわゆ》る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
 顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
 こう云っているような顔であった。



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