国枝史郎「銀三十枚」(18) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(18)

18

 爾来私達はその家に住んだ。

 彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
 彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
 毎朝牛乳で顔を洗った。
 とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由《わけ》があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点《しみ》があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。
 彼女は耳髱《みみたぶ》に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。
 彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁《はなびら》の色とを保っていた。
 耳の穴、鼻の穴に注意した。
 だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は仏蘭西《フランス》あたりの、青色の白粉《おしろい》を使うらしい。
 臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。
 肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。
 肌理《きめ》が絹のように細かくなった。
 きっと滑らかなことだろう。
 だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。
 遥拝しなければならなかった。
 又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり障《さわ》って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。
「ああ彼女には洋装が似合う」
 ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。
 その心配は無用であった。
 翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。
 それを着て彼女は出かけようとした。
 チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。
 命ずるような眼付きであった。
 私は周章《あわて》て腰《こし》をかがめた。
 裳裾《もすそ》を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。
 その配慮は無用であった。
 今日流行《はやり》の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。
 時々彼女は私へ云った。
「高尚《ノーブル》にね。高尚にね。貴郎《あなた》もどうぞ高尚にね」
 で私は腹の中で云った。
「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『高尚《ノーブル》にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ!』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」
 この心配も無用であった。彼女はほんとに[#「ほんとに」に傍点]翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。
 もう贋物には見えなかった。
 生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。
 下手に嵌め込まれた義歯《いれば》さえ、どうしたものか目立たなくなった。
 歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。
 彼女の身長《せい》は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。――姿勢のよくなったためだろう。
 彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!
 勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。
 一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。
 そうして私へもそれを進めた。
 私は心でこう叫んだ。
「謀叛人の女が良人《おっと》を進め、同じ謀叛人にしようとしている! マクベス夫人の心持だ!」
 そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。
 彼女は定《き》まって一人で外出《で》た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。
 良人のあるということを、隠したがっているらしかった。
 家財道具が新調された。黒壇細工! 埋木《うもれぎ》細工!
 植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。
 大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。
 屋敷が次第に立派になった。
「そうさ、伽藍《がらん》がよくなければ、仏像に価値《ねうち》がつかないからな」
 ある夕方自動車が着いた。
 彼女は洋装で出かけて行った。
 私は玄関まで従《つ》いて行った。それ、例の小姓のように。
 自動車は自家用の大型物であった。
 自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつ[#「つつ」に傍点]こう」
 だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
 どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
 私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」



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