国枝史郎「銀三十枚」(20) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(20)

20

 性慾の方も抑えることが出来た。
 私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に懲々《こりごり》していた。
「彼女のことを忘れなければならない!」
 これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。
 まずまず平和と云ってよかった。
 一人ぼっち[#「ぼっち」に傍点]の生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。
 規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。
 こっそり町を散歩した。精々珈琲店《カフェ》へ寄るぐらいであった。酒も煙草《たばこ》も廃《や》めてしまった。で、珈琲店では曹達《ソウダ》水を飲んだ。
「文字通りの清教徒さ」
 私は聖書を読むようになった。昔とは全然《まるで》異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。
「貧しき者は福《さいわい》なり」「哀《かなし》む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「矜恤《あわれみ》する者は福なり」「平和《やわらぎ》を求むる者は福なり」
「不思議だなあ」と私は云った。
「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」
「不思議ではない」と私は云った。
「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ解《わか》らない」
 そうして尚も私は云った。
「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」
 私は一種の法悦を感じた。
「容易に私は動揺されまい」
 こんなようにさえ思うようになった。
 そうしてそれは本当であった。
 ある朝私は自分の部屋で、紅茶を淹《い》れて飲んでいた。
 私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。
「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」
 私は動揺されなかった。しかし、
「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を愍《あわ》れむ心持は動いた。
 で私は呟いた。
「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」
 決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。
 翌日《あくるひ》私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。
 私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、裸体《はだか》の柱が灰色に見えた。
 と、誰か私の横へ、こっそり腰かける気勢《けはい》がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。
「少しお痩せになりましたね」
 こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。
「これはしばらく」と私は云った。
 私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに健康《たっしゃ》そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。
「ただ今奥様とお逢いして来ました」
 相変わらず慇懃の態度で云った。
「今はちょうどその帰りで」
「ああ左様でございますか」
「貴郎《あなた》この頃お留守だそうで」
「ええ」と私は微笑した。
 急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。そっちから人影が現われた。それは逞《たくま》しい外人であった。
 不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。



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