国枝史郎「銀三十枚」(21) (ぎんさんじゅうまい)

国枝史郎「銀三十枚」(21)

21

「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっとも[#「ちっとも」に傍点]ご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」
 ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。
 と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。
 噴水の向こうに隠れてしまった。
 私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。
「ひとつ彼女を祝福しに行こう」
 それでもロハ台から離れなかった。
「大金が彼女の懐中《ふところ》へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」
 私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
 こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
 書斎の扉《ドア》が開いていた。
 大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
 私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
 沈黙が部屋を占領した。
 黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
 だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労《つかれ》ているらしかった。
 私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な白金《プラチナ》は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」
 すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
 私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
 私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが[#「そいつが」に傍点]移ってはたまらない」

 依然として下宿で暮らすことにした。
 その翌日のことであった。
 何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
 こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
 さすがに私は竦然とした。
「彼女の仕業《しわざ》ではあるまいか?」
 ふと[#「ふと」に傍点]私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
 私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
 翌日の新聞が心待たれた。
 だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。
「では彼女ではないのかしら?」
 私は幾分ホッとした。
「彼女に平和があるように」
 それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。
「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」
 これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。
 事件は迷宮に入った方がよかった。
 穏かな日が流れて行った。
 だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。
「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」



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