国枝史郎「銀三十枚」(23) (ぎんさんじゅうまい)
国枝史郎「銀三十枚」(23)
23
商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって[#「かっさらって」に傍点]行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
間もなくタクシがやって来た。
彼女は乗って出て行った。
私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると狂人《きちがい》になるぞ」
私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
で、私は下宿へ帰った。
数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
ある日私はこっそり[#「こっそり」に傍点]と、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
間もなく春が訪れて来た。
やがて晩春初夏となった。
彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
菖蒲《あやめ》の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
だんだん私は健康になった。
ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
その日も書斎で物を書いていた。
私はそこで話し込んだ。
と、博士が不意に云った。
「汎猶太《はんユダヤ》主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦《ロンドン》タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
私はちょっと興味を持った。
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