国枝史郎「甲州鎮撫隊」(02) (こうしゅうちんぶたい)

国枝史郎「甲州鎮撫隊」(02)

   夢の中の人々

「お千代!」
 と不意に、眠った筈の総司が叫んだ。女は驚いたように、細い襟足を延ばし、男の顔を覗込《のぞきこ》んだ。
「お千代、たっしゃかえ! たっしゃでいておくれ!」
 と又総司は叫んだ。でも、その後から、苦しそうな寝息が洩れた。眠りながらの言葉だったのである。女はニッと笑った。遠くの方から、半鐘の音が聞えて来た。脱走の浪人などが、放火したのかもしれない。女はソロソロと、神経質に、部屋の中を見廻してから、懐中《ふところ》へ手を入れた。短刀の柄頭《つかがしら》らしい物が、水色の半襟の間から覗いた。
「済まん、細木永之丞君!」
 と又、眠っている総司は叫んだ。
「命令だったからじゃ、済まん」
 女は眼を据え、肩を縮め、放心したように口を開け、総司を見詰めた。
「済まんと云っているよ。……それじゃア何か理由《わけ》が……然《そ》うでなくても、この子供っぽい、可愛らしい顔を見ては。……」
 尚、総司の寝顔を見守るのであった。

 幾日か経った。お力――それは、沖田総司に、隠匿《かくま》われた女であるが、植甚の職人、留吉を相手に、植甚の庭で、話していた。
「苅込ってむずかしいものね」
「そりゃア貴女……」
「鋏《はさみ》づかい随分器用ね」
「これで生活《くって》て[#「生活《くって》て」はママ]いるんでさア」
「ずいぶん年季入れたの」
「へい」
 木蘭は、その大輪の花を、空に向かって捧《ささ》げているし、海棠《かいどう》の花は、悩める美女に譬《たと》えられている、なまめかしい色を、木蓮《もくれん》の、白い花の間に鏤《ちりば》めているし、花木の間には、苔《こけ》のむした奇石《いし》が、無造作に置かれてあるし、いつの間に潜込んで来たのか、鷦鳥《みそさざえ》が、こそこそ木の根元や、石の裾を彷徨《さまよ》っていた。そうして木間越しには、例の池と滝とが、大量の水を湛《たた》えたり、落としたりしていた。
 鳥羽、伏見で敗れた将軍家が、江戸城で謹慎していることだの、上野山内に、彰義隊《しょうぎたい》が立籠っていることだの、薩長の兵が、有栖川宮様《ありすがわのみやさま》を征東大総督に奉仰《あおぎたてまつ》り、西郷吉之助《きちのすけ》を大参謀とし、東海道から、江戸へ征込《せめこ》んで来ることだのという、血腥《ちなまぐさ》い事件も、ここ植甚の庭にいれば、他事《よそごと》のようにしか感じられないほど、閑寂であった。
「姐《ねえ》さん、よくご精が出ますね」
 と、印袢纏《しるしばんてん》に、向鉢巻《むこうはちまき》をした留吉は、松の枝へ、一鋏《ひとはさ》みパチリと入れながら云った。
 お力は、簪《かんざし》で、髪の根元をゴシゴシ引掻《ひっか》いていたが、
「何よ」
「沖田さんのご介抱によく毎日……」
「生命《いのち》の恩人だものね」
「そりゃアまあ」
「あの晩かくまっていただかなかったら、斬合いの側杖《そばづえ》から、妾《あたし》ア殺されていたかもしれないんだものね」
「そりゃアまあ……」
「それに沖田さんて人、可愛らしい人さ」
「へッ、へッ、そっちの方が本音だ」
「かも知れないわね」
「あっしなんか何《ど》んなもので」
「木の端《はし》くれ[#「くれ」に傍点]ぐらいのものさ」
 パチリ! と留吉は、切らずともよい、可成り大事な枝を、自棄《やけ》で、つい切って了《しま》い、
「ほいほい、木の端くれか、……と、うっかり木の端くれ[#「くれ」に傍点]を切ったが、こいつ親方に叱られそうだぞ。……と、いうようなことはお預けとしておいて、木の端くれ[#「くれ」に傍点]だなんて云わずに、どうですい、この留吉へも、……」
 お力は返事もしないで、木間を隙《すか》して、離座敷の方を眺めた。
 その離座敷では、沖田総司と、近藤勇とが話していた。
 勇が来訪《たずねてき》たので、お力は、座を外したのであった。






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