国枝史郎「紅白縮緬組」(05) (こうはくちりめんぐみ)

国枝史郎「紅白縮緬組」(05)

        五

 さすがは名犬、源氏太郎は、早速には飛びかかっても行かなかった。鼻面を低く地に着けて、上眼で敵を睨みながら、陰々たる唸りの声を上げ、若衆の周囲を廻り出した。相手を疲れさせるためでもあろう。
 若衆は刀を下段に構え、廻る犬に連れて廻り出した。時々「やっ」と声を掛けて犬に怒りを起こさせようとする。誘いの隙を見せた時、犬は虚空に五尺余りも蹴鞠《けまり》のように飛び上がったが、パッと咽喉もとへ飛びかかる。
 掛け声も掛けずただ一閃、刀を横に払ったかと思うと「ギャッ」と一声声を揚げたまま、源氏太郎は胴を割られ二つになって地に落ちた。
「切ったわ切ったわお犬様を!」
 驚き恐れた叫び声が、白縮緬組七人の口から、同時にワッと湧き起こった。
 忽然その時駕籠の戸が内から音もなく開けられた。プンと火縄の匂いがして、スーッと立ち出でた一人の手弱女《たおやめ》。手に持った種ヶ島を宙に振り、やがて狙いを定めたのは若衆の胸の真ん中であった。
 人々は一度に声を呑んだ。
 天地寂廖として音もない。
 と、手弱女《たおやめ》は嘲けるように、
「下郎推参!」
 と呼び掛けたが、ニタリと笑ったその艶顔には、凄愴たる鬼気さえ籠もっている。若衆はブルッと身顫《みぶる》いをした。飛び道具に恐れての戦慄《みぶるい》か? それとも手弱女の類を絶した、この世ならぬ美に胸衝《う》たれ恍惚から来た身の顫えか? 下段に構えた刀を引き入身正眼に付けたまま、いつまでもじっと動かない。
 こうして瞬間の時が経った。
 ハッと種ヶ島の火花が散りあわや一発打ち放されようとした時、「えい!」と掛けた掛け声が、夜の闇の中から聞こえたかと思うと、カチリと打ち合う音がして手弱女《たおやめ》の持っていた種ヶ島は手から放れて地に落ちた。
 奴姿《やっこすがた》の大男が人家の軒から投げた飛礫《つぶて》が若衆の危難を救ったのである。若衆は刀を投げ捨てると、飛燕のように飛び込んで行った。手弱女を膝下に抑えたのである。
 奴姿の大男も大刀を抜いて現われ出たが、白縮緬組七人の中へ面もふらず切って行った。
 若衆は手弱女の頤の辺へ片手を掛けて顔を持ち上げ月の光につくづくと見た。丹花の唇、芙蓉の眉、まことに古い形容ではあるが、この手弱女には似つかわしい。下髪にした黒髪が頬に項《うなじ》に乱れているのも憐れを誘って艶《なまめ》かしく、蜀江錦の裲襠《うちかけ》の下、藤紫の衣裳を洩れてろうがましく見ゆる脛《はぎ》の肌は玉のようにも滑らかである。観念の眼を堅く閉じ微動さえしない覚悟の中にはある気高ささえ含まれている。
 柳営に仕える局としても余りに美しく高貴である。
 若衆の口から洩れたのは焔のような溜息であった。彼は静かに膝を退け、そっと手弱女を引き起こした。それから彼は立ち上がり腕を組んで黙然と眺めていた。実《げ》にやこの世の物ならぬ妖艶たる手弱女のその姿を。
 七人の相手を追い散らし、馳せ返って来た奴姿は、それと見るよりつと進み寄り血刀をグイと突き付けた。
「これ」
 と制したのは若衆である。投げ捨てた刀を拾い上げ、パチリ鞘に収めてから袴の塵《ちり》をハタハタと払い、
「千代はどうした。見て参れ」
「おおそうじゃ。お嬢様……」
 行きかかる時、人家の軒から、粛々と進み出た三人の武士。その三人に囲まれながら、頸垂《うなだ》れて歩むのは女であった。
「千代か?」と若衆は声をかけた。
「あいや暁杜鵑之介殿。お妹ごまさしくお引き渡す間、その女人こちらへお譲りくだされい」
 三人の武士のその一人が、ツカツカと前に進み出ながら、慇懃の言葉でこういった。
「何人でござるぞ? そう仰せらるるは?」
 若衆も前へ進み出た。ぴったり二人は顔を合わせたのである。
 武士は言葉を潜めたが、
「北条安房守配下の与力、鹿間紋十郎と申す者でござる」
「む。ご貴殿が鹿間殿か――してあの女人は何人でござるな?」
「あれこそ、お伝の方でござる」
「…………」
 若衆は無言で頷いた。そうして改めて女人を見た。
「いかにもお譲り致しましょう」
「お譲りくださるか。忝《かたじ》けない。いざお妹ごをお渡し申す」
「千代、袖平、参ろうかの」
 悠然と若衆は歩を運んだ。






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