国枝史郎「首頂戴」(6) (くびちょうだい)

国枝史郎「首頂戴」(6)

     六

 さてそれから一年がたった。
 淀川堤に春が来た。
 例の穢い蒲鉾小屋に、例の乞食が住んでいた。そうして例の女がいた。だが女の風俗は、きらびやか[#「きらびやか」に傍点]な花魁の風ではなく、男と同じ乞食姿であった。
 茶も立ててはいなかった。香も焚いてはいなかった。蒔絵の硯箱も短冊もない。で勿論茶釜もなかった。名刀を仕込んだ青竹ばかりが、乞食の膝元に置いてあった。
 白木の箱が置いてある。
 どうやら大事の品らしい。
 春陽が小屋の中へ射し込んでいる。街道を通る旅人が見える。淀川の流れが流れている。
 白帆が上流へ帆走っている。
「流石は山内伊賀之助、眼力に狂いがなかったよ」
 こういったのは乞食である。寂しい苦笑が口許に浮かび、顔全体を憂欝に見せる。
「けっく妾にとりましては、その方がよろしゅうございました。ご一緒に住めるのでございますもの」
 こういったのは女である。嬉しそうにその眼を輝かせている。
「大岡越前と来た日には、煮ても焼いても食えない奴さ。伊賀之助の首を持参したら、俺の真意を早くも察し、乞食姿の俺を招じ、途方もなくご馳走をした揚句、政治というもののむずかしいことと、役人というものの苦衷とを、いろいろ話して聞かせた上、紋服を一襲《かさね》くれたのだからな」チラリと長方形の箱を見たが「アッハハハ何んという態だ、ひどくその時の俺と来たら、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした気持になり、切ってかかろうともしなかったのだからな」
「でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と」
「ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ」
「どう考えがつきました?」鳥渡不安そうに女が訊いた。
「俺はこんなように考えて了った。「一年考えるということが、もう抑々間違いだった」とな。……一年の間考えてごらん、張り切った精神なんか弛んでしまう。復讐なんていうものは、一種の熱気でやる可きものさ。考えたら熱気が覚めてしまう」
「それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ」
「そうさなあ、紋服をお出し」
 立ち上がった女箱を取ると、ポンとばかりに箱の蓋をあけた。
 差し延ばした乞食の手につれて、現れたのは一襲の紋服。
 スラリ刀を引き抜いて、グッとばかりに突くかと思ったら、刀も抜かず突きもせず、紋服をヒラリと着たものである。
「どんなように見える? 似合うかな?」
「ちっともお似合い致しません」
「そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える」
「お脱ぎなさりませ、そんな衣裳」
「うむ」というと脱ぎすててしまった。
「お怨みなさりませ一刀」
「馬鹿をおいい」と笑い出した。「予譲にまでは成り下がらないよ」
 菜の花の匂いが匂って来た。遠くで犬の吠声がする。草の間からスルスルと、小蛇が一匹這い出して来た。啓蟄《けいちつ》の季節が来たのだろう。土手の向う側へ隠れてしまった。
「これから何んとなされます?」
「そうよなァ、泥棒になろう」
 女、さすがに沈黙した。
「どうだな?」と乞食微笑した。「怖いかな? お前は厭か?」
「花魁から乞食、乞食から泥棒、その辺がオチでございましょう」
「武士から乞食、乞食から泥棒、まずこの辺が恰好さ」
 春昼《ひる》である。暖かい。雲雀がお喋舌りをつづけている。
「これもな」と乞食物憂そうにいった。「彼奴、越前へのツラアテさ。手にあまるほどの大盗となり、一泡吹かせてやるつもりさ」

 暁星五郎という大盗が、関東関西を横行したのは、それから間もなくのことであった。火術を使うという評判であった。影の形に添うように、美人が付いているという評判でもあった。

(緑林黒白ニ曰ク)大盗暁星五郎、ソノ本名白須庄左衛門、西国某侯遺臣ニシテ、幕府有司ニ含ム所アリ、主トシテ大名旗本ヲ襲フ、島原ノ遊女花扇、是ト馴染ンデ党中トナリ、変幻出没ヲ同ジウス、星五郎強奪度無シト雖モ、ヨク散ジテ窮民ヲ賑ス、云々。

 兎まれ大岡越前守が、この暁星五郎なる賊を、幾度か捕えようとして躊躇《ちゅうちょ》したことは、事実らしいということである。





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