国枝史郎「鵞湖仙人」(05) (がこせんにん)

国枝史郎「鵞湖仙人」(05)

     五

「幽霊船だって? 何んの事だ?」
 こう呟いたのは正雪であった。
 彼は此時厩《うまや》の背後、竹藪の中に隠れていた。
 で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
 いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火《たいまつ》で無い。得体の知れない火であった。
 どうやら帆柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
 天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船《いくさぶね》であった。二本の帆柱、船首《へさき》の戦楼《やぐら》矢狭間が諸所に設けられている。
 そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
 人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
 おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
 彼等はみんな[#「みんな」に傍点]痩せていた。
 と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
 飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
 鵞湖仙人の屋敷の方へ!
 近寄るままによく[#「よく」に傍点]見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
 甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
 竹藪の方へ走って来る。
 流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
 彼は地面へ腹這いになった。
 サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよ[#「そよ」に傍点]との音も立て無い。一片の葉さえ戦《そよ》がない。彼等には形さえ無いと見える。
 いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
 即ち彼等は幽霊なのだ!
 幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に走って行くのである。
 物凄い光景と云わざるを得ない。
 幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
 と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
 湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
 ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
 意外! 歌声が湧き起った。
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武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄《きよ》し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
[#ここで字下げ終わり]
 訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。
 由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
 くり返しくり返し聞える歌!
 深夜である。
 山中である。
 その歌声の物凄さ!



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