国枝史郎「鵞湖仙人」(07) (がこせんにん)

国枝史郎「鵞湖仙人」(07)

     七

「ひどい[#「ひどい」に傍点]ことをなさる、由井正雪殿」
 老人は相手を怨むように云った。
「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」
 正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」
「深くは無いが、ちょっと痛い」
「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」
「でも宜く心が付かれたな」
「天地人三才の筋からでござる」
「大概な者には解らぬ筈だが」
「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」
「さよう、あれは、十宮伝」
「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。
 すると老人はジロリと見たが、
「さあ何うだかな、わし[#「わし」に傍点]は知らぬ」俄《にわか》に用心したものである。「それは然うと正雪殿、昨日[#「昨日」は底本では「明日」]は湖畔でお目にかかったな」
「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。
「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、嘶馬《せきば》探法、いろいろ忍術をおやりのようだが、とうとう諦めて帰られたな。どうやら葉迦流をお学びと見える、が、まだまだ少しお若い。あれでは固めは破れぬよ」
「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。
 彼は一膝グイと進めた。
「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」
「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」
「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」
「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」
「歌に就いてのお考えは?」
「え、歌だって? なんの歌かな?」
「彼奴等の歌ったあの歌でござる」
「あああれか[#「あれか」に傍点]、考えて見た。……が、どうも解らない」
「ところが拙者には解って居る」
「ふうん、さようかな、その意味は?」
「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」
「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。
「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」
「さようでござる、孫娘で」
「どうして活きて戻られたな?」
「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわし[#「わし」に傍点]には祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わし[#「わし」に傍点]を間接に苦しめるのでござるよ」
「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」
「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」
「今後はなんとなされますな?」
「手が出ませぬ。捨てて置きます」
「お娘御のお命は?」
「可哀そうに、死にましょう」
「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。
「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」
 老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。
「最早秘巻此わし[#「わし」に傍点]には、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわし[#「わし」に傍点]は、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」
 つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。
「術譲り! 襟を正されい」
 正雪はピタリと襟を正した。
「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」



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