国枝史郎「戯作者」(02) (げさくしゃ)

国枝史郎「戯作者」(02)

手錠五十日

 明日《あす》とも云わず其日《そのひ》即刻《そっこく》、京伝は使いを走らせて馬琴を家へ呼んで来た。
「滝沢さん、素敵でげすなア」
 のっけ[#「のっけ」に傍点]から感嘆詞を浴びせかけたが、
「立派なものです。驚きやした。悠に一家を為して居りやす。京伝黙って頭を下げやす。門下などとは飛んでもない話。組合になりやしょう友達になりやしょう。いやいや私《わっち》こそ教えを受けやしょう」
 こんな具合に褒めたものである。
 馬琴は黙って聞いていたが、別に嬉しそうな顔もしない。大袈裟な言葉をのべつ幕無しふんだん[#「ふんだん」に傍点]に飛び出させる京伝の口を、寧ろ皮肉な眼付きをして、じろじろ見遣るばかりであった。
「それはさておきご相談……」
 と、京伝は落語でも語るようにペラペラ軽快に喋舌《しゃべ》って来たのを、ひょいとここで横へ逸らせ、
「どうでげすな滝沢さん、私の家へ来なすっては。一つ部屋へ机を並べて一諸に遣ろうじゃごわせんか」
「おおそれは何よりの事。洵《まこと》参って宜敷ゅうござるかな」
 馬琴はじめて莞爾とした。
「ようござんすともおいでなせえ。明日《あす》ともいわず今日越しなせえ。……おい八蔵や八蔵や、お引っ越しの手伝いをしな」
 手を拍って使僕《こもの》を呼んだものである。
 馬琴の父は興蔵《こうぞう》といって松平信成《のぶなり》の用人であったが、馬琴の幼時死亡した。家は長兄の興旨《こうし》が継いだが故あって主家を浪人した。しかし馬琴だけは止まって若殿のお相手をしたものである。しかるに若殿がお多分に洩れず没分暁漢《わからずや》の悪童で馬琴を撲ったり叩いたりした。そうでなくてさえ豪毅一徹清廉潔白の馬琴である。憤然として袖を払い、
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木がらしに思い立ちけり神の旅
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 こういう一句を壁に認めると、飄然と主家を立ち去ってしまった。十四歳の時である。
「もうもう宮仕えは真平だ」
 馬琴は固く決心したが、しかしそれでは食って行けない。止むを得ず戸田侯の徒士《かち》となったり旗本邸を廻り歩いたり、突然医家を志し幕府の典医山本宗英《やまもとそうえい》の薬籠《やくろう》持ちとなって見たり、そうかと思うと儒者を志願し亀田鵬斎《ほうさい》の門をくぐったり、石川五山に従って柄にない狂歌を学んだり、橘千蔭《たちばなちかげ》に書を習ったりしたが、成功することは出来なかった。こうして最後に志したのが好きの道の戯作者であったが、ここに初めて京伝によってその天才を認められたのである。――馬琴この時二十四歳、そうして京伝は三十歳であった。

 版元蔦屋重三郎がある日銀座の京伝の住居《すまい》をさも忙《せわ》しそうに訪れた。
「おおこれは耕書堂《こうしょどう》さん」
「お互いひどい目に逢いましたなア」
 蔦屋は哄然と笑ったものである。
 幕府施政の方針に触れ、草双紙が絶版に附せられたのは天明《てんめい》末年のことであった。恋川春町《こいかわしゅんちょう》、芝全交《しばぜんこう》、平沢喜三二《ひらさわきさじ》と云ったような当時一流の戯作者達はこの機会に失脚し、京伝一人の天下となり大いに気持を宜《よ》くしたものであるが、寛政《かんせい》二年の洒落本禁止令は京伝の手足を奪ってしまった。
 と云ってこれ迄売り込んだ名をみすみす葬ってしまうのは如何《いか》にも残念という所から版元蔦屋と相談した末「教訓読本」と表題を変え、内味は同じ洒落本を蔦屋の手で発行した。思惑通りの大当りで増版々々という景気であったが、果然鉄槌は天下った。利益に眩み上を畏れず下知《げち》を犯したは不届というので蔦屋は身上半減で闕所、京伝は手錠五十日と云う大きな灸をすえられたのである。
「さて」と蔦屋は居住居を直し京伝の顔色を窺ったが、
「身上半減でこの蔦屋もこれ迄のようにはゆきませんが、しかしこのまま廃《すた》れてしまっては商売冥利死んでも死なれません。そこでご相談に上りましたが、今年もいよいよ歳暮《くれ》に逼り新年《はる》の仕度を致さねばならず、ついては洵に申し兼ねますが、お上のお達しに逆らわない範囲で草双紙をお書き下さるまいか。」[#「まいか。」」は底本では「まいか。」]
 余儀ない様子に頼んだものである。
 京伝は腕を組んで聞いていたが、早速には返辞もしなかった。――彼はすっかり懲りたのである。五十日の鉄の手錠は彼には少し重すぎた。いっそ戯作の足を洗い小さくともよいから店でも出し、袋物でも商おうかしら? それに今こそ人気ではあるがいつ落ちないものでもなし、それにもし今度忌避に触れたら牢に入れられないものでもない。あぶないあぶないと思っているのであった。
「しかし蔦屋も気の毒だな。身上半減は辛かろう。日頃剛愎であるだけにこんな場合には尚耐《こた》えよう。それに年来《としごろ》蔦屋には随分俺も厄介になった。ここで没義道《もぎどう》に見捨ることも出来ない」
 で、京伝は云ったものである。
「ようごす、ひとつ書きやしょう」






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