国枝史郎「戯作者」(03) (げさくしゃ)

国枝史郎「戯作者」(03)

戯作道精進

「さあ忙しいぞ忙しいぞ」
 蔦屋重三郎の帰った後、京伝は大袈裟にこう云いながら性急に机へ向かったが、性来の遅筆はどうにもならず、ただ筆を噛むばかりであった。
 そこへのっそり[#「のっそり」に傍点]と入って来たのは居候の馬琴である。
「あ、そうだ、こいつア宜《い》い」
 何と思ったか京伝はポンと筆で机を打ったが、
「滝沢さん、頼みますぜ」
 藪から棒に云ったものである。
「何でござるな」と云いながら、六尺豊かの偉大な体をずんぐりとそこへ坐らせたが、馬琴は不思議そうに眼をパチつかせる。
「偉いお荷物を背負い込んでね、大あぶあぶの助け船でさあ。実は……」と京伝は蔦屋との話をざっと馬琴へ話した後、
「新年《はる》と云っても逼って居りやす。四編はどうでも書かずばなるまい。とても私《わっち》の手には合わず、さりとて今更断りもならず、四苦八苦の態たらくでげす。――いかがでげしょう滝沢さん、代作をなすっちゃア下さるまいか?」
 とうとう切り出したものである。
「代作?」と云って渋面を作る。
 馬琴には意味が呑み込めないらしい。
「左様、代作、不可《いけま》せんかえ?」
「……で、筋はどうなりますな?」
「ああ筋ですか、胸三寸、それはここに蔵して居ります」
 ポンと胸を叩いたが、それから例の落語口調でその「筋」なるものを語り出した。
 黙って馬琴は聞いていたが、時々水のような冷い笑いを頬の辺りへ浮べたものである。
 聞いてしまうと軽く頷き、
「よろしゅうござる、代作しましょう」
「では承知して下さるか」
「ともかくも筆慣らし、その筋立てで書いて見ましょう」
「や、そいつア有難てえ。無論稿料は山分けですぜ」
 しかしそれには返辞もせず、馬琴はノッソリ立ち上ったが、やがて自分の机へ行くと、もう筆を取り上げた。
 筆を投ずれば風を生じ百言即座《たちどころ》に発するというのが所謂《いわゆ》る馬琴の作風であって、推敲[#「推敲」は底本では「推稿」]反覆の京伝から見れば奇蹟と云わなければならなかった。
 その日から数えて一月ばかりの間に、実に馬琴は五編の物語をいと易々と仕上げたのである。しかも京伝の物語った筋は刺身のツマほども加味して居らず大方は馬琴の独創であって、これが京伝を驚かせもし又内心恐れさせもしたが、苦情を云うべき事柄ではない。で、黙って受取って自分の綴った二編を加え蔦屋の手へ渡したのである。
 七編の草双紙は初春早々山東京伝の署名の下に蔦屋から市場へ売出されたが、やはり破《わ》れるような人気を博し今度は有司にも咎められず、先ずは大々的成功であったが、これを最後に京伝は、草双紙、洒落本から足を抜き、教訓物や昔咄や「実語教稚講釈《じつごきょうおさなこうしゃく》」こう云ったような質実《じみ》な物へ、努めて世界を求めて行った。これは手錠に懲りたからでもあるが、又馬琴の大才を恐れ、同じ方面で角逐《かくちく》することの、不得策であることを知ったからでもある。
 その馬琴はそれから間もなく、蔦屋重三郎に懇望され、京伝の食客《いそうろう》から一躍して、耕書堂書店の番頭となったが、これはこの時の代作が稀代の成功を齎《もたら》したからであった。
「蔦屋《ここ》へ来て何より嬉しいのは自由に書物《ほん》が読まれることだ」
 馬琴はこう云って喜んだが、それはさすがに書店だけに、耕書堂蔦屋には文庫があり、戦記や物語の古書籍が豊富に貯えられていたからである。馬琴は用事の隙々《ひまひま》にそれらの書物を渉猟し、飽無き智慧慾を満足させた。
 戯作者としては彼の体が余りに偉大であったので、冗談ではなく誠心《まごころ》から相撲になれと進める者があったが彼は笑って取り合わなかった。その清廉の精神と堂々の風彩を見込まれて、蔦屋の親戚の遊女屋から入婿になるよう望まれたが、馬琴は相手にしなかった。
 側眼もふらず戯作道を彼は精進したのである。
 曲亭馬琴と署名して「春の花虱《しらみ》の道行」を耕書堂から出版《だ》したのは、それから間もなくのことであったが、幸先よくもこの処女作は相当喝采を博したものである。
 これに気を得て続々と馬琴は諸作を発表したが、折しも京伝は転化期にあり、他に目星しい競争者もなく、文字通り彼の一人舞台であり、かつは名文家で精力絶倫、第一人者と成ったのは理の当然と云うべきであろう。
 しかし間もなく競争者は意外の方面から現われた。
 十返舎一九《じっぺんしゃいっく》、式亭三馬《しきていさんば》が、滑稽物をひっさげて、戯作界へ現われたのは馬琴にとっては容易ならない競争相手といってよかろう。






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