国枝史郎「戯作者」(04) (げさくしゃ)

国枝史郎「戯作者」(04)

物を云う据風呂桶

 それはある年の大晦日、しかも夕暮のことであったが、新しい草双紙の腹案をあれかこれかと考えながら、雑踏の深川の大通りを一人馬琴は歩いていた。
 と、ボンと衝突《つきあた》った。
「ああ痛!」と思わず叫び俯向いていた顔をひょいと上げると、据風呂桶がニョッキリと眼の前に立っているではないか。
「えい箆棒《べらぼう》、気を付けろい!」
 桶の中から人の声がする。
「桶を冠っているからにゃ、眼のみえねえのは解り切っていらあ。何でえ盲目《めくら》に衝突たりやがって。ええ気をつけろい気をつけろい!」
 莫迦に威勢のよい捲き舌で桶の中の男は罵詈《ののし》ったが、馬琴にはその声に聞き覚えがあった。それに白昼の大晦日に、深川の通りを風呂桶を冠って横行闊歩する人間は、あの男以外[#「以外」は底本では「意外」]には無いはずである。
 そこで馬琴は声を掛けて見た。
「おい貴公十返舎ではないか」
「え?」
 桶の中の男は酷《ひど》く驚いた様子であったが、にわかにゲラゲラ笑い出し、
「解ったぞ解ったぞ声に聞き覚えがある。滝沢氏でござろうがな。アッハハハハ、奇遇々々。いかにも手前十返舎一九、冑《かぶと》を脱いでいざ見参! ありゃありゃありゃありゃ、ソレソレソレソレ」
 掛声と一緒に据風呂桶を次第に高く持ち上げたが、ヌッと裾から顔を覗かせると、
「一夜明ければ新玉の年、初湯を立てようと存じやしてな、風呂桶を借りて参りやした。そこで何と滝沢氏、明日《あす》は是非とも年始がてら初湯を試みにお出かけ下され。確《しか》とお約束致しやした。しからばこれにて、ハイハイご免。ありゃありゃありゃありゃ、お隠れお隠れ、血塊々々、ソレソレソレソレ」
 ふたたびスッポリ桶を冠るとやがてユサユサと歩き出した。
 後を見送った曲亭馬琴は、笑うことさえ出来なかった。あまりに一九の遣り口が彼とかけ離れているからである。
「いやどうも呆れたものだ」
 馬琴は静かに歩きながら思わず口へ出して呟いた。
「洒落と奇矯でこの浮世を夢のように送ろうとする。果してそれでよいものだろうか? 今江戸に住む戯作者という戯作者、立派な学者の太田蜀山さえ、そういう傾向を持っている。一体これでよいものだろうか? どうも自分には解らない」
 馬琴は何となく寂しくなった。肩を落とし首を垂れ、うそ寒そうに足を運ぶ。
「京伝は俗物、一九は洒落者、そうして三馬は小皮肉家。……俺一人彼奴《きゃつ》らと異《ちが》う。これは確かに寂しいことだ。しかし」と馬琴は昂然と、その人一倍大きな頭を、元気よく肩の上へ振上げたが、
「人は人だ、俺は俺だ! 俺はやっぱり俺の道を行こう。仁義礼智……教訓……指導……俺は道徳で押して行こう。俺の目的は済世救民だ!」
 彼は足早に歩き出した。何の不安も無さそうである。
 その翌日のことであったが、物堅い馬琴は約束通り、儀礼年始の正装で一九の家を訪れた。
「これはこれは滝沢氏、ようこそおいで下されやした。何はともあれ初湯一風呂さあさあザッとお召しなさりませ。湯加減も上々吉、湯の辞儀は水とやら十段目でいって居りやす。年賀の挨拶もそれからのこと、へへへへ、お風呂召しましょう」
 一九は酷《ひど》くはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]廻り無闇と風呂を勧めるのであった。





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