国枝史郎「戯作者」(06) (げさくしゃ)

国枝史郎「戯作者」(06)

剣道極意無想の構え

「もう俺も若くはない。畢世の仕事、不朽の仕事に、そろそろ取りかかる必要があろう」
 こういう強い決心の下に「八犬伝」に筆を染めたのは、文化十一年の春であった。
 この頃の馬琴の人気と来ては洵に眼覚しいものであって、戯作界の第一人者、誰一人歯の立つ者はなく、版元などは毎日のように機嫌伺いに人をよこし、狷介孤嶂《けんかいこしょう》の彼の心を努めて迎えようとした程である。
「八犬伝」の最初の編が一度市場へ現われるや、萬本即座《たちどころ》に売り尽くすという空前の売れ行きを現わした。書斎の隣室へ朝から晩まで画工と彫刻師とが詰めかけて来て、一枚書ければ一枚だけ絵に描いて版に起こし、一編集まれば一編だけ、本に纏めて売り出すのであった、それでも読者は待ち兼ねて矢のような催促をするのであった。
 こうして四編を出した時、馬琴はにわかに行き詰まった。
「俺は身分は武士であったが、何故か武芸を侮ってこれ迄一度も学んだことがない。武芸を知らずに武勇譚を書く、これは行き詰るのが当然である」
 こう考えて来て当惑したが、そこは精力絶倫の馬琴のことであったから、決して挫折はしなかった。当時の剣客浅利又七郎《あさりまたしちろう》へ贄《にえ》[#「贄」は底本では「贅」]を入れて門下となり、剣を修めようとしたのである。
 馬琴の健気《けなげ》なこの希望《のぞみ》を浅利又七郎は受け納《い》れた。
「先ず型を習うがよい」
 又七郎はこう云って自身手をとって教授した。型の修行が積んだ所で又七郎は又云った。
「極意に悟入する必要がある。無念無想ということだ」
「無念無想と申しますと?」
 馬琴にはその意味が解らなかった。
「敵に向って考えぬ[#「考えぬ」に傍点]ことだ」
「全身隙だらけにはなりますまいか?」
「そこだ」と又七郎は頷いたが、
「全身これ隙、それがよいのだ」
「ははあ左様でございましょうか」
「全身隙ということは隙が無いと同じことだ」
「ははあ」と馬琴は眼を丸くする。
「守りが乱《みだ》れて隙となる。最初から体を守らなかったら、隙の出来よう筈はない」
「あっ、成程、これはごもっとも」
「さて、剣だ、下段に構えるがよい。相手の腹を狙うのだ。切るのではない突き通すのだ。眼は自分の足許を見る。そうしてじっ[#「じっ」に傍点]と動かない。敵の刀が自分の体へヒヤリと一太刀触れた時グイと剣を突き出すがよい。肉を斬らせて骨を斬る。間違っても合討ちとはなろう。打ち合わす太刀の下こそ地獄なれ身を捨てこそ浮かむ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。貴殿は中年も過ごして居る。今更剣を学んだ所で到底一流には達しられぬ。無駄な時間を費やさぬがよい」
「御教訓忝《かたじけ》のう存じます」
 馬琴は礼を云って引き退ったが、心中多少不満であった。極意についての解釈も、解ったようで解らなかった。従って「八犬伝」の続稿も、書き進むことが出来なかった。憂鬱の日が続いたのである。
 しかし間もなく意外な事件が馬琴の身上に降って湧いた。そうしてそれが馬琴の心を、ガラリ一変させたものである。
 ある夜、馬琴はただ一人、柳原の土手を歩いていた。
 と、一人の若侍が、暗い柳の立木の陰から、つと姿を現わしたが宗十郎頭巾で顔を包み黒紋付を着流している。
 馬琴は気味悪く思いながらも、引き返すことも出来なかったので、往来の端を足音を忍ばせ、しとしと[#「しとしと」に傍点]と先へ歩いて行った。すると、ひそかに心配していた通り、覆面の武士が近寄って来た。スルリ双方擦れ違った途端、キラリと剣光が閃いた。
「抜いたな」と馬琴は感付いたが、却《にげ》も走りもしなかった。かえって彼は立ち止まったのである。それから静かに刀を抜くと、それを下段に付けたまま悠然と体の方向《むき》を変え、グルリ背後《うしろ》へ振り向いて辻斬の武士と向かい合った。
「うむ、ここだな、無念無想!」
 馬琴は心で呟くと、故意《わざ》と相手の姿は見ずに自分の足許へ眼を注けた。臍下丹田に心を落ち付け、いつ迄も無言で佇んだ。
 相手の武士もかかって来ない。青眼に刀を構えたまま、微動をさえもしないのである。


八犬伝書き進む

 その時武士の囁く声が馬琴の耳へ聞こえてきた。
「驚き入ったる無想の構え。合討ちになるも無駄なこと、いざ刀をお納め下され」
 そういう言葉の切れた時パチリと鍔鳴りの音がした。武士は刀を納めたらしい。しかし馬琴は動かなかった。じっ[#「じっ」に傍点]と刀を構えたまま不動の姿勢を崩そうともしない。返辞をしようともしなかった。声の顫えるのを恐れたからである。
 と、また武士の声がした。
「拙者は武術修行の者、千葉周作成政と申す。ご姓名お聞かせ下さるまいか」
 しかし馬琴は返辞をしない。無念無想を続けている。
「誰人《どなた》に従《つ》いて学ばれたな? お聞かせ下さることなりますまいかな?」
 武士の声はまた云った。
「拙者師匠は浅利又七郎」
 馬琴は初めてこう云ったがその声は顫えていなかった。この時彼の心持は水のように澄み切っていたのである。
「ははあ、浅利殿でござったか。道理で」と武士は呟くように云った。
「今夜は拙者の負けでござる。ご免」と云う声が聞こえたかと思うと、立ち去るらしい足音がした。
 その足音の消えた時、馬琴は初めて顔を上げた。武士の姿はどこにも見えない。そこには闇が有るばかりである。
 自分の家へ帰って来ると、直ぐに馬琴は筆を執った。犬飼現八の怪猫退治――八犬伝での大修羅場は、瞬間にして出来上ったが、爾来滞ることもなく厖大極まる物語りは、二十年間書きつづけられたのである。






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