国枝史郎「仇討姉妹笠」(11) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(11)

   白刃に囲まれて

 この時代《ころ》のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷《たに》と川とで、形成《かたちづく》られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往《ゆ》き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々《こわごわ》ながらもこの境地《とち》を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥《い》の刻を過ごした頃であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]という曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡《えばらごおり》の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個《いくつ》かあるらしく、それらの独楽を悉皆《みんな》集めて全部《すっかり》の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後《うしろ》から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓《つまず》[#「《つまず》」は底本では「《つまづ》」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側《そば》の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。



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