国枝史郎「仇討姉妹笠」(21) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(21)

   陥穽から男が

 すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、
「えい穢らわしい、何のおのれに!」
 次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。
「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、汝《おのれ》ごときにこの体を、女の操を許そうや! 穢らわしい穢らわしい! ……山岸主税様が隠語の執筆家《かきて》を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか! 嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか! ……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか! もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう! わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」
「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。
「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、其方《そち》には大切で恋しいか! ……よーしそれではその主税めを! ……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と可憐《いとし》らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ!」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。
 と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。陥穽《おとしあな》にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、妖怪《もののけ》のように抽け出して来たが、
「お殿様、上首尾です」――こうその男は北叟《ほくそ》笑みながら云った。
「そうか。そこで、気絶でもしたか?」
「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」
「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」
「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子《はしご》は急でござんすが」
「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」
「かしこまりましてございます」
 奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。
 と、頼母は声をかけた。
「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」
「わかりましてござります」
 その男――勘兵衛は頷いて云った。
 勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の定席《こや》の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]のために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは? しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは?
 しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。
 頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と静寂《さびしさ》ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えて[#「絶えて」は底本では「耐えて」]しまった。

 それから少時《しばらく》の時が経った。
 同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。
 土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。
 と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀[#「大刀」はママ]を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。
 それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう?
 そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?



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