国枝史郎「仇討姉妹笠」(32) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(32)

   恋のわび住居

 それから一月の日が経った。桜も散り連翹《れんぎょう》も散り、四辺《あたり》は新緑の候となった。
 荏原郡《えばらごおり》馬込の里の、農家の離家《はなれ》に主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、夫婦のようにして暮らしていた。
 表面《おもてむき》は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。
 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめ[#「あやめ」に傍点]が一人で坐っていた。
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※[#歌記号、1-3-28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
いつも逢うては何の恋ぞも
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 爪びきに合わせてあやめ[#「あやめ」に傍点]は唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた[#「脱いた」はママ]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]は唄っているのであった。
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※[#歌記号、1-3-28]やるせなや帆かけて通る船さえも
都鳥番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり
[#ここで字下げ終わり]
 不意にあやめ[#「あやめ」に傍点]は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
 主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
 不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。



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