国枝史郎「仇討姉妹笠」(34) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(34)

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめ[#「あやめ」に傍点]の眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。



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