国枝史郎「仇討姉妹笠」(35) (かたきうちきょうだいがさ)
国枝史郎「仇討姉妹笠」(35)
三下悪党
主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]ばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
あやめ[#「あやめ」に傍点]としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
このように思うことさえあった。
しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒になろうか)
悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
あやめ[#「あやめ」に傍点]は涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
涙の面紗《ヴェール》を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。
いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏《たそがれ》に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。
横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光《ひか》らせながら、淀屋の独楽が転がっている。
と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇《ひき》のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。
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