国枝史郎「仇討姉妹笠」(39) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(39)

   母娘は逢ったが

「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
 こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、閉扉《あけず》の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
 亭には一人松女だけが残った。
 松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い頸《うなじ》の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。
 といつの間に現われたものか、その松女のすぐの背後《うしろ》に、妖怪《もののけ》のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。
 猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
 と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
 松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾《わたし》は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」
「お葉※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 それは譫言《うわごと》のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
 グラグラと体が傾ぎ、前のめり[#「のめり」に傍点]にのめったかと思うと、もう親娘《おやこ》は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。
「不孝者! お葉! だいそれた[#「だいそれた」に傍点]不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
 やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。妾《わたし》の手許へ!」
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪《はなかんざし》を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみす[#「みすみす」に傍点]ズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」



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