国枝史郎「仇討姉妹笠」(51) (かたきうちきょうだいがさ)

国枝史郎「仇討姉妹笠」(51)

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可《いけ》ねえ、殺《やら》れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰《たぐ》られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝《おのれ》! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ[#「くたばれくたばれ」に傍点]!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめ[#「あやめ」に傍点]は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕《しもべ》となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下《した》にいる敵《かたき》の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ[#「あやめ」に傍点]達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけず[#「あけず」に傍点]の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中《ふところ》から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

 お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。



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